記事「蘇我氏」 の 検索結果 117 件
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安閑と軽(カル) 4 不思議なサル石の存在(承前) その内の古い物は『6世紀の第3四半世紀』に造られた播磨系の凝灰岩製だと判定されているので、絶大な権勢を誇った蘇我氏の一族、例えば稲目(506?~570)と家族の合葬墓ではないかとする説も..
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安閑と軽(カル) 2 軽は聖地を意味したのか(承前) また、神話時代を象徴する伝説的な竹内宿禰の祖父に当たる孝元天皇の都が置かれた所が軽の境原宮であり、安閑の父・継体天皇の祖とされる応神帝の都も大軽町の軽島豊明宮(軽島之明宮)だったと伝えら..
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安閑と軽(カル) 1 蘇我氏の本拠地安閑天皇(466~536)は、継体大王の長子とされ、母は尾張氏の目子媛、諱を勾大兄(まがりのおおえ)と称した。その「生涯」について古事記は次の様に伝える。 御子、広国押建金日命、勾の金箸宮..
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安閑と高屋 3 異例の合葬は事実か(承前) 「四通八達」の言葉通り、東西南北を行き交う道筋の交叉点に位置する「古市」は、現在でも近畿日本鉄道の南大阪線と河内長野線の分岐駅になっており、大古から大量の物資が集散する「市(いちば)」が..
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息長と科長 1 ルーツはホムツワケ大々杼王(継体天皇、450?~531?)について書かれた文献は多く、その何れもが何かしらの「謎」について語っていますが、彼の出自を巡っては幾つもの疑問が提示され続け、研究者のあいだでも決着がつか..
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息長と河内 4 「黒城」は鉄王の意味か(承前) 「家記」にある記述のすべてを鵜呑みに肯定する訳ではありませんが、創り物にしては話が込み入り過ぎていますし、現に「不敬罪」が存在していた旧帝国憲法下で公表された意図も定かではありません。(..
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息長と継体 4 不思議な神社の伝承(承前) さて、前回から、ここまでの推理をまとめてみましょう。 1 ヤマトの後継者として、有力豪族たちの合意の許、 継体天皇が迎え入れられた。彼は都を河内の樟葉に置いた。 2 継..
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息長と継体 1 宗我の「入鹿宮」とは安閑天皇の父・継体帝(450?~531)はヤマト朝の跡継ぎが途絶えそうな緊急事態を憂いた有力豪族たちの「要請」に応え、近江あるいは越の地から重い腰を上げ大王の位に就いたとされてきました。にもかか..
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継体たちの后妃 10 植山古墳は複雑な仕様(承前) 最後に残ったものが橿原の植山古墳です。この古墳は他のものと比べて多くの特徴を持っています。それは、 ① 円墳ではなく、方円墳でもなく方墳、正しくは長方墳であること。 ② 貴人の「..
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継体たちの后妃 1 香久山と赤土数少ない古墳巡りを体験する過程で、断続的に脳裏をかすめ続けた不鮮明なイメージの断片が、一つのまとまった「姓」として浮かび上がるまでには相当の月日を要した。蘇我氏の足跡を辿り大和橿原の大きくうねる..
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継体と三嶋2 敏達と宣化天皇古事記が応神天皇(おうじんてんのう)の「事績」に多くのページを割いていることは周知の事実ですが、その末尾に、次のような一文が付け加えられていることは余り知られていません。 また、この品陀天..
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【基礎】推古朝のころの流れ(飛鳥時代前期)◆まとめ◆ 587年、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。 589年、隋が中国を統一。 592年、推古天皇が大王となる。 600年、第一回遣隋使。 603年、冠位十二階。 604年、憲法十七条..