記事「蘇我氏」 の 検索結果 117 件
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稲目の正体 8 入鹿、山背大兄王を襲う(承前) 翌推古三十年十月にある『大臣蝦夷、私(ひそか)に紫冠を子入鹿に授けて』との記述も、大王の「専権」事項を勝手に行えるほどの威勢があったと理解できます。そして歴史上に「蘇我氏」の悪名を留める..
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稲目の正体 7 入鹿の威令都に満つ(承前) 守屋を討とうとした時、四天王の像を造り誓いを立てて「馬子」軍の戦勝を祈った最も若い皇子が厩戸皇子であったことはつとに知られた逸話に他なりません。崇峻天皇が思わず大伴嬪小手子に洩らした、 ..
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稲目の正体 6 国記は蘇我氏が管理(承前) 謎解きの続きです。 ③ 西暦645年の「大化の改新」の折「蝦夷」の邸宅に 何故「天皇記・国記」が置かれていたのか? 天皇記、国記および国造、公民本記など、当..
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稲目の正体 1 物部氏の自負越の国から男大迹王の担ぎ出しに成功した物部麁鹿火には一つの誤算があった、と前回のオノコロ・シリーズ(旧HP)を締め括りました。継体天皇と摂津三嶋に関する資料を集めている過程で浮かび上がっていた一..
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安閑の周辺 4 三嶋に葬られた石川年足(承前) かつて筆者は、元明上皇の内臣で首皇子(聖武天皇)の後見人であった藤原房前(ふじわら・ふささき,681~737)たちと同世代を生きた石川年足(いしかわ・としたり,688~762)の墓が、藤..
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安閑の周辺 3 揺れ動く豪族たち(承前) 雷神であれば、三嶋とも縁の深い、そして歴史の古い神様が他にもおられます。上賀茂の賀茂別雷神などを筆頭とした鴨系の神々などは、十分、高槻に祀られる神としての性格を備えていますし、現に、三嶋..
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蘇我氏と銅 4 理想像は竹内宿禰(承前) 一世代を20~25年余りだと仮定すれば、乎獲居臣の「上祖・オオヒコ」が活躍した時代は遅くても四世紀初頭、早ければ三世紀末という時期であったことになり、あの「卑弥呼」さんの時代まで、あと一..
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蘇我氏と銅 3 大王自ら先陣を切る(承前) また「万葉集」注釈が引用した「摂津風土記逸文」は、継体天皇の先祖でもある応神帝の都を軽島豊阿伎羅宮だとも伝え、欽明朝に台頭した蘇我稲目(506?~570)は、大伴狭手彦が高麗から戦利品と..
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蘇我氏と銅 2 香久山は「カル」の山(承前) 第八代孝元天皇はオオヤマトネコヒコクニクルという「名称」を持っていますが、彼が都を置いた場所が軽境原宮で、そこは今、牟佐坐(むさざ)神社の建つ橿原市見瀬町に比定されています。また孝元帝の..
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蘇我氏と銅 1 鉄が新たな国を産む継体天皇親子の足跡探しで奈良の橿原や大阪平野のあたりを歩き回り、それまで聞いたことも無かった楯原神社に辿り着いた。住吉神社とも縁がありそうな、この社については何度も別のページで紹介をしてきました..
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蘇我氏と安閑 3 河内が継体のルーツ(承前) この植山古墳の被葬者たちについて橿原市教育委員会は上述のように『当時の日本で一、二の権力を有していた人物』と慎重で控えめな表現に留めていますが、古墳が造られたと思われる年代と場所などから..
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蘇我氏と安閑 2 ゼネコン土師氏(承前) 只、この「大王のひつぎ」説そのものは大変興味深いものなのですが、昭和21年に京都大学と大阪府教育委員会が共同調査を行った大阪・道明寺の長持山古墳2号棺(5世紀中頃の築造?)は、明らかに真..