記事「長野」 の 検索結果 8398 件
-
吉良義周墓吉良義周は吉良上野介義央の孫にして養子でもあった人物で、松の廊下の刃傷事件の後、吉良義央のあとを継いで吉良家の 当主となりました。しかし、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件のため改易されてしまい、その後、信..
-
法華寺諏訪大社上社本宮の神宮寺として栄えたのが、現在は臨済宗の法華寺。 天正10年(1582年)の織田信長の甲斐侵攻の際、信長は法華寺に本陣を置きましたが、 ここで明智光秀を折檻したのが本能寺の変の発端とな..
-
雷電為衛門像雷電爲右エ門は信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)出身の 元大相撲力士で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。 諏訪大社上社本宮境内に、矢崎虎夫作(文部大臣賞受賞)の像があります。
-
胴合橋長野市篠ノ井杵淵の信州そば蔵長野店に隣接してある小さな橋。 第4次川中島の戦いで、武田信玄の軍師である山本勘助は戦死。その戦死した山本勘助の首と胴を合わせたという伝説の場所です。
-
青木神社(陣場河原八幡宮)跡永禄4年(1561年)9月の第4次川中島の戦い・八幡原の激戦で、前半不利だった武田軍が後半には攻勢に転じ、上杉軍は劣勢となり犀川を渡って撤退。戦いの終了後、武田軍は、この神社で勝鬨をあげたと伝わってい..
-
茶臼山本陣跡永禄4年(1561年)8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて妻女山に陣をとり、それに対し、武田信玄は甲府から進軍、この茶臼山に本陣を構えたそうです。10日後、信玄は茶臼山を降りて海津城に入り、両軍はにら..
-
松本城永正年間(1504-1520年)に小笠原氏が林城の支城として築城したのが始まりとのこと。天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守12城の一つとして国宝に指定(天守が国宝指定されているの..
-
諏訪御料人供養塔長野県岡谷市の小坂観音院の境内にある諏訪御料人の供養塔。諏訪御料人は諏訪頼重の娘で武田勝頼の母ですが、本名は不明。小説の中では、湖衣姫、由布姫、とも名づけられています。
-
小坂観音院長野県岡谷市にある真言宗智山派のお寺で、かつては諏訪大社の社坊。諏訪氏の祈願所だったところで、井上靖の著書「風林火山」では、諏訪頼重の娘の由布姫が武田信玄の側室となり、この観音院で暮らす設定になってい..
-
武田勝頼母墓長野県伊那市高遠町西高遠の建福寺境内にある武田勝頼母の墓。武田勝頼が藩主の時、武田家菩提所として母諏訪御料人を埋葬したそうです。一番右が武田勝頼母の墓、中央が武田家家臣保科正直、左が高遠藩初代藩主保科..
-
荒砥城跡荒砥城は現在の長野県千曲市にあった山城で、この地域の領有をめぐる上杉氏、武田氏の攻防戦が川中島の戦いへとつながっていきました。現在は城山史跡公園として整備され、大河ドラマのロケにも使用されました。
-
山本勘助墓山本勘助は武田信玄の側近として活躍した軍師で武田24将の一人。第4次川中島の戦いの際、山本勘助の献策した啄木鳥戦法が上杉謙信に見破られて失敗し、山本勘助も合戦の中で討ち取られました。