記事「長野」 の 検索結果 7848 件
-
木曽義仲館跡(木曽)木曽義仲は2歳のころ、父の源義賢が源義朝の長男である義平に討たれ、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へと逃れてきたと伝えられています。木曽では中原兼遠に養育され、兼遠館の北東に居館を構えていたそうで..
-
木曽義仲と巴御前像木曽義仲は源義賢の次男で、源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる武将。 巴御前は木曽義仲の妾で、樋口兼光の娘とも、中原兼遠の娘、樋口兼光・ 今井兼平の姉妹とも云われ、男勝りの武勇の持ち主だったと..
-
中原兼遠墓中原兼遠は源義賢の遺児・駒王丸、後の木曽義仲を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育した信濃国木曾地方に本拠を置く豪族でした。兼遠の子である樋口兼光・今井兼平はともに義仲の重臣となっています。
-
寝覚の床木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形で、国の名勝。浦島太郎の伝説地であり、この地で玉手箱を開けた浦島太郎は目が覚めたかのように思い、この里を「寝覚の床」と呼ぶようになったと伝わっていま..
-
信州そば発祥の地長野県伊那市の西方郊外、駒ケ岳神宮境内にある行者そば発祥の地の碑。里人たちが役小角か らもらった「そば」の種を 大事に育て「行者そば」と呼び、その「そば」が信州全域 に広がり「信州そば」といわれ発展し..
-
絵島墓信濃高遠藩へ流された絵島は、27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に風邪をひいて、それが元になって死去したとのことです。享年61歳、墓所は高遠の蓮華寺にあります。
-
絵島像絵島は江戸時代中期の江戸城大奥御年寄であった女性。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物で、高遠に流されていました。
-
蓮華寺(高遠)江島生島事件により高遠の地に配流となった絵島は質素な生活を強いられましたが、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許されていたそうで、境内には絵島の墓があります。
-
絵島囲み屋敷江島生島事件の中心人物であった絵島は信濃高遠藩へと流されました。高遠では屋敷に幽閉されて、質素な生活を送ったと伝わっていますが、絵島が過ごした屋敷が復元されて、絵島囲み屋敷として公開されています。
-
新城(盛信)神社・藤原神社長野県伊那市の高遠城址公園内に鎮座する神社。元からあった藤原鎌足を祀った藤原社と、織田信長との合戦で戦死した武田信玄の五男仁科盛信の霊を一緒にお祀りした神社だそうです。
-
妻籠宿本陣跡妻籠に宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣と庄屋を兼ね勤めたそうです。島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄の広助とのことです。
-
妻籠宿妻籠宿は現在の長野県木曽郡南木曽町にあった中山道42番目の宿。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で人口は418人だっ..