記事「香川」 の 検索結果 6801 件
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佐藤継信墓佐藤継信は、治承4年(1180年)、奥州にいた源義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・佐藤忠信と共に義経に随行しました。そして、義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで..
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神櫛王墓神櫛王は、「日本書紀」によれば、第12代景行天皇と妃の五十河媛との間に生まれた皇子で、「古事記」では、景行天皇と針間之伊那毘能大郎女との間に生まれた皇子とされています。伝説によると、讃岐入りして瀬戸内..
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佐藤継信墓佐藤継信は寿永4年(1185年)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登守教経の強弓により大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち身代わりとなって討死しました。この墓は、寛永20年(1643年)に、..
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安徳天皇社寿永2年(1183年)、平宗盛は安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に着ました。ここは檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て..
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菊王丸墓屋島の合戦の際、平能登守教経は佐藤継信を射落とし、教経に仕えていた菊王丸は継信に駆け寄りその首を取ろう としました。しかし逆に、継信の弟忠信に射抜かれ、菊王丸はま もなく息たえたとのこと。これを悲しん..
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義経弓流し源平屋島の合戦の際、遠浅の海岸だったこの場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げている最中に、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家..
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船かくし寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は讃岐国屋島に本拠を置き、勢力の回復を図ろうとしました。そして平家は各所に船だまりを置き、海上からの源氏の攻撃に備えたと伝えられています。この浦は南の小山..
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扇の的源平屋島の合戦の際、夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。これを源氏方の那須与一が見事に射落としたという平家物語の名場面の場所です。駒立岩から約55..
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駒立岩源平の屋島の合戦の際、那須与一はこの石上に馬を止めて、扇の的を射たといわれています。与一宗高は射術をよくするので、源義経は衆中から選出して扇の的を射させました。宗高は命を承り、見事扇の的を射て、味方だ..
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景清錣引きの地源平屋島の合戦の際、逃げる源氏の美尾屋十郎の兜を平家の悪七兵衛景清が熊手で引っかけ、強い腕の力で兜の錣を引きちぎったと伝わる場所。景清の剛勇さと十郎の首の強さをお互いに称賛したとのことです。
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祈り岩この岩は源平合戦の時、那須与一宗高が扇の的を射ようとして、この岩に向かい「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明日光権現、宇都宮那須湯泉大明神、願わくはあの扇の真中射させ給えかし」と、神明の加護を祈った..
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洲崎寺香川県高松市にある弘法大師により創建されたと伝わるお寺。源平合戦の際には負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれ、源氏の本陣のあった義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、瓜生ヶ丘まで運..