記事「保科正之」 の 検索結果 76 件
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江戸湾を守る(1)徳川家康は、のど元の江戸湾を守るため、房総の上総、下総国や対岸の三浦半島に譜代の小大名を配置した他、旗本を御船手頭として置き、防御体制を固めた。 房総半島では、①久留里藩が上総国望蛇郡久留里(現..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(13)正容は享保16年(1731)63歳で没し、容貞が4代藩主になったが、学事的には事跡もなく、寛延3年(1750)27歳で死去するが、晩年には猪苗代方面で金曲騒動という百姓一揆が勃発するなど、学問を奨励..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(12)正之は、藩士の教育にも力を注いだ。寛文4年(1664)横田俊益らを招いて藩士だけでなく、庶民も入れる「稽古堂」を建てた。鶴ヶ城城下町全体を教導しようという広大な目的だった。 藩祖の遺志を受け継い..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(11)後に正之は、四男正経(二代藩主)や家老たちに、この家訓の主旨を懇切に説明したという。寛文12年(1672)12月18日、享年62で死去する前に、病床でおまんの方に対して、 「吾が没後、汝必ず政事を..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(10)おまんの方は四男正経(後の二代藩主)の母親だから成敗はしなかったが、正之は、この時以来おまんの方を遠ざけ、決して継室としては扱わなかった。この事件が、10年後に制定する「家訓15ヶ条」の第4条となっ..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(9)要するに、おまんの方は、自分が産んだ媛姫が米沢30万石へ嫁したのに、お国御前のおしほの方の娘松姫は、何と加賀100万石に輿入れすることに、猛烈な嫉妬心をおこしたのだ。 彼女は嫉妬のあまり、自分付..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(9)要するに、おまんの方は、自分が産んだ媛姫が米沢30万石へ嫁したのに、お国御前のおしほの方の娘松姫は、何と加賀100万石に輿入れすることに、猛烈な嫉妬心をおこしたのだ。 彼女は嫉妬のあまり、自分付..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(8)さらに、『松平小君略伝』の該当部分が詳しい。 「清光院殿(媛姫)は姉君ながら加州(加賀藩)と較べて家格も禄も遥かに劣りつる上杉侍従綱勝朝臣に嫁し給ひしを、御母の聖光院殿心に深く嫉み給ひつれば、其..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(7)ところが、その夜から媛姫は「少々御虫気」状態になり、中屋敷のうちに養生することになった。 初めは「深き御容体にもこれなく」見えたが、松姫の婚礼から2日後の7月28日の朝寅の刻(4時)に至り、にわ..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(6)事件は万治元年(1658)7月に起きた。おまんの方が産んだ長女媛姫は明暦元年(1655)米沢藩主上杉綱勝に嫁いでいたが、3年後の万治元年に側室おしほの方に産まれた四女松姫が、将軍家綱じきじきのお声掛..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(5)第13条に「法を犯す者は、宥すべからず」とあるのは、武断政治から文治主義の政治へと切り替わるべき時代の流れに棹さした人物の言であろう。 さらに面白い(興味を引く)条項は第3条である。「婦人女子の..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(4)第一条が會津藩の精神を端的に示す条項といえる。現代語に訳せば、「徳川将軍家に対して一心に忠義に励むべきで、他藩と同じ程度の忠義で満足してはならない。もし将軍家に対して逆意を抱くような會津藩主が現われ..