記事「保科正之」 の 検索結果 76 件
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(3)1、近侍者をして、人の善悪を告げしむべからず。 1、政事は、利害を以て道理を抂(ま)ぐべからず。僉議(せんぎ)は、私意を挟み人言を拒(ふさ)ぐべからず。思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争う..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(2)『会津若松史』第三巻にある読み下しから。 1。大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら拠(お)るべからず。若し二心を懐(いだ)かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。 ..
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「家訓15ヶ条」と「什の誓い」(1)会津藩には、「家訓(かきん)15ヶ条」と「什の誓い」があるのは有名な話だ。幕末、最後まで徳川幕府を守ろうと、薩長勢力に対抗し、やがて「滅びの美学」ともいうべき戊辰戦争へ突き進む。 直接の引き金に..
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日本の電気事業(1)今年も夏が近づいてきた。東電では、家庭用電気料金の10%値上げを申請するという。消費者が反対し、他の事業者から受けたくとも、地域独占の形態で、通らない。政党への献金を含めて電気料金を計算するのには、..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(341)◇鶴ヶ城小史(24) 明成については一般的に、暗愚凶暴な領主といわれているが、幼年から明成に仕えた学者横田俊益(後に保科正之の侍講)は、教養のある寛容な領主であったことを『横田俊益年譜..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(213)◇賢君の苦渋(最終回) 昭和初期の大槻如電の『自語自筆』とある文章に次のようなものがある。 「・・・会津中将も寛文9年に隠居いたしまして、12年に亡くなられました。そこで酒井雅楽頭(..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(212)◇賢君の苦渋(40) 寛文12年(1672)12月18日、保科正之は62歳で病没した。 寅の下刻というから午前5時頃であったろう。場所は江戸・三田の会津藩下屋敷に於いてである。 ..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(211)◇賢君の苦渋(39) これらの中で、正之の仕残したものは、2代藩主となった保科正経が遺志を継ぎ、完成させている。 寛文9年(1669)・・・。 正之は隠居を願い出て許されたが、 ..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(210)◇賢君の苦渋(38) この後、間もなく、保科正之は発病している。明暦大火の5年前には、あの「毒殺事件」が起きていたし、正之も、将軍補弼役の役目に就いてからは、心身の休まる日とてなかった..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(209)◇賢君の苦渋(37) 焼失した江戸の復興についても、正之が示した業績は大きい。玉川上水を開いたのも、この時である。 このような保科正之の政治力というものは、領国の会津へも同じように..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(208)◇賢君の苦渋(36) 米価の騰貴を防ぐことを得たし、焼死者の死体を取り片付ける時は、正之が馬上でこれを督励したという話も伝えられている。焼死者を葬った場所(本所)には、回向院が建立され..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(207)◇賢君の苦渋(35) 焼死者は10万8千人。武家屋敷は1500軒(1300軒ともいわれる)、町家の焼失は1200町、神社仏閣は340に及んだ。 まず、江戸市中の90%が灰になったと..