記事「墳墓」 の 検索結果 55 件
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伊波按司の墓(いはあじのはか)・近年に遷移された墓所のようだ。元は何処にあったんだろう。伊波按司の墓は、なぜか伊波城跡から少し離れた山城集落にある。按司墓は住居であった城跡の傍に在るものだと思っていたが、違った。伊波按司については、これまでに、あれこれ触れてきたので、この項では省略する..
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尚泰久の墳墓跡とウミナイ墓・1908年、所縁ある子孫により南城市玉城冨里へ遷移されている。尚泰久の墳墓跡は、伊波小学校の脇から県道6号線を逸れて、石川消防署を通り過ぎ、国道329号線を横切った先の左側、住宅街の中にある。県道沿いに掲示されていた文化財マップを、しっかりと脳裏に覚え込ませて..
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伊波ヌル墓(いはのろばか)・茫々と茂った草叢に遮られ、詣でることは諦めた。伊波城の入り口、鳥居の手前左側に、「伊波ヌンドゥンチ」の祠があって、火ぬ神が祀られていた。かつて、伊 波ノロ(神女)たちが、ロノグムイ(共同生活)をしていた「ヌール家(や)」があった場所だと伝わって..
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鬼大城の墓(うにうふぐすくのはか)・勝連城を落とし、阿麻和利を討ちとった武将である。国道329号線、知花交差点の北側左手に見える小高い丘に、知花城がある。ガイドブックにしている比嘉朝進氏の書かれた『沖縄拝所巡り』には、知花城跡の展望台に上る石段の右手から、細い道を辿って行くと、鬼大..
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尚宣威王の墓(しょうせんいおうのはか)・なんとなく哀れをさそう尚宣威の生涯である。越来城跡の入り口に、越来文化財マップが揚げられていた。ここから僅かな距離に、第二尚氏二代目の王、尚宣威 (しょうせんい)の墓がある。越来集落を抜けて行けば良いのだが、これまで集落に入り込んで、何度も..
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仲順大主の墓(ちゅんじゅんうふしゅのはか)・舜天王統の義本王にまつわる伝承が残っている。ナスの御嶽から100m程下った所が丁字路になり、突き当りの先に外人住宅が並んでいる。仲順大主の墓は、この外人住宅の街並みの中にある。住宅に挟まれた広場の奥に樹木に覆われた巨大な岩があり、岩山と住宅の..
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喜舎場公の墓(きしゃばこうの墓)・喜舎場村の開祖、喜舎場公が祀られている。喜舎場(きしゃば)とは、13世紀半ば頃に実在した人物の名であると云う。喜舎場村の開祖だそうで、尊称の「公」を付して喜舎場公と呼ばれ、集落後方に続く丘陵に祀られている。 高速バスを利用して何度..
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中城若松の墓(なかぐすくわかまちのはか)・組踊『執心鐘入』のモデルになった人物だと云う。県道81号線の安谷屋交差点から146号線に入り、凡そ150mも歩くと山手側に若松公園に向かって伸びる階段がある。公園は、通称ユナハン(与那覇)岳と呼ばれる丘陵に整備されている。 長く続く石段を上..
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アマミチューの墓・沖縄の祖霊神が祀られている。那覇からバスを乗り継いで、浜比嘉島までやってきた。このあと最北端の伊計島まで行く積りなので、浜比嘉島の拝所巡りは忙しくなりそうだ。次のコミュニティバスは二時間後にやってくる。 アマミチューの墓..
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護佐丸の墓(ごさまるのはか)・その子孫からは琉球王朝に関わった多彩な人物を輩出している。中城グスクを出て、県道を南にとって進むと尾根を越えて中城村に入る。下り坂になり、その先に脇道があって、左折して凡そ200mも歩くと、左手に「護佐丸公之御墓」と彫られた石碑が建っていた。そこから、高台..
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小禄墓(おろくばか)・石積みが、湧き出る清水で黒く濡れていた。二週間ほど前、ガイドブックを片手に小禄墓を訪ねた。案内標識に「工事中のため立ち入り禁止となっています。文化課までお問い合わせください。」と書いた札が張り付けてあったので、参拝を諦め、問い合わせ先..
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与座之前腹門中之墓(よざのまえはらもんちゅうのはか)・巨大な亀甲墓は財力の証でもある。潮平イビガナシの拝みを終え、このあとの道筋を地図で確認した。阿波根(あわごん)の集落を抜けて豊見城市に入り、寄り道になるようだが、翁長集落のジョン万次郎の碑を訪ねてみたいと思った。そこから保栄茂(..