記事「墳墓」 の 検索結果 55 件
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他魯毎の墓(たるみぃのはか)・他魯毎は、尚巴志の第一子だったとする学説がある。他魯毎(たるみぃ)は南山国、最後の王(在位: 1415?~1429年)である。糸満ロータリー北東側の岩山を山巓毛(さんてんもー)といい、その崖下に他魯毎の墓がある。1429年、中山の尚巴志配下の軍勢..
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幸地腹・赤比儀腹門中墓(こうちばら・あかひぎばらもんちゅうばか)・腹と門中の違いは?国吉神社に詣でた後 、糸満市街地に向かった。県道は曲がりくねった下り坂である。近くに工事現場があるのか、ダンプカーが行き交うので、てくてく歩きにはすこぶる危険だ。県道わきの丘陵には沖縄特有の..
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南風原按司(はえばるあじ)の墓・南山王国は滅びても、その子孫は琉球王国で逞しく生きていた。国道331号線の上り坂が続き、上り詰めた山手側の生い茂った雑草の中に目印の石碑を見つけた。『阿氏南山守会・南風原按司守忠・花城親方守知・墓入口』と彫られている。そこから上に続く間道をのぼると..
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尚布里王子の墓(しょうふりおうじのはか)・琉球第一尚氏の六代王位に就けなかった王子。またまた坂道を下り、再び県道43号線に戻って来た。およその感覚で尚泰久王の墓とは反対方向に向かって歩いていたら、歩道左手の上に拝所らしき祠を見つけたので上がって見た。なんと、祠の脇に石柱があって、「..
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百十踏揚の墓(ももとふみあがりのはか)・「ももと」は、政治に翻弄され波乱の人生を送った女性である。尚泰久王の墓に詣で、もと来た道を戻った。上り坂が続いている。南城市役所の脇に番所跡があって、そこから更に上に向かって延びる道がある。坂の突き当たり右側にテニスコートがあって、その向こうに立派な陸上競..
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尚泰久王の墓(しょうたいきゅうおうのはか)・第一尚氏六代目の国王で、仏教に帰依したという。陵墓は南城市役所からほど近い距離にある。坂道を下り、県道48号線へ出て左折すると、左手に目印になる美容室がある。その向かいの未舗装の道に入って行くと、テッポウ百合の群生に囲まれた尚泰久王陵を示す石..
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大城按司の墓(うふぐすくあじのはか)・墓室の上部が特徴的で、ドーム状の石積みになっている。大里城跡の麓に通じているバスの通りを真っ直ぐ南へ向かった。大城城跡までは、さほどの距離では無い。バス停に揚げられた時刻表を見たら、一日3本のバスしか走っていない。モルトン病という持病を抱えている。万..
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石垣島「唐人墓」異聞・碑文の裏に、苦悶する琉球王府と翻弄された島民たちの姿が見えてきた。前回書いたブログ、「石垣島・唐人墓」の文章は、墓石に刻まれた碑文を参考にして、琉球王府、石垣島の人々の功績を、美談調に記述している。しかし、書き終えた後、なぜか、しっくりとこない感覚が、頭の隅に残っ..
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石垣島・唐人墓 (とうじんばか)・幕府が周章狼狽した黒船来航と繋がっていた。石垣島の唐人墓を訪ねる機会があった。墓碑の中央に次の様な内容の碑文が刻まれている。要約して、私流にまとめる。 1852年2月、400人余りの苦力(クーリー)が、厦門(あもい)から米国船ロバー..
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佐敷ようどれ(さしきようどれ)・尚思紹一族の墓所。航空自衛隊知念分屯基地の中にある。玉城の「あまつづあまつぎの御嶽」の巡拝を終えて、時間もたっぷり余しているので、ニライカナイ橋まで歩くことにした。凡そ6Kmはあるだろう。 途中で、垣花城跡に寄った。一月ほど前に垣花樋川(かきのは..
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開山長老の墓(かいざんちょうろうのはか)・琉球に塩づくりを伝えた人物の墓だそうだ。今帰仁村役場のバス停から、国道505号線を南に向かって歩き始めた。湧川(わくがわ)集落にある拝所、「新里屋(しんざとやー)」を訪ねるためである。日差しが強く、年寄りと謂えども、日焼け止めのクリームと..
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百按司墓 (むむじゃなばか)・その名のとおり、大勢の按司が葬られているお墓です。大北墓(うにしばか)から、フクギに囲まれた路地を抜け、集落の背後に続く丘陵へ上っていった。トンネルを抜けると道が二股に分かれ、右に取って進むと丁字路があり、百按司墓・ムムジャナ墓180m、ティラガマ..