記事「大田南畝」 の 検索結果 45 件
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写楽と戀川春町 4 筆禍は事実だったか(承前) 大正期の新聞人・宮武外骨(1867~1955)も『青本年表』という資料の「寛政元年の項」を引用した形で、恋川春町が「筆禍」に遭い「秋七月をもって不帰の客となった」と自らの著書『筆禍史』(..
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写楽と恋川春町 1 大田南畝と狂歌雲母(キラ)摺りの歌舞伎役者大首絵二十数枚を引っ提げて東洲斎写楽が江戸の町に現れたのは寛政六年五月、恒例の曽我祭に合わせた版元蔦屋の企画物に飛び付いたのは芝居好き、役者好きの人たちばかりではなか..
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写楽斎と八丁堀 1 此道くらき江戸後期、文芸の分野で大いに活躍した大田直次郎(南畝、蜀山人)が大変に筆まめな人物であったお蔭で、二世紀もの時を隔てた今、私たちは当時の細々とした出来事、風物等のあれこれを手に取るように知ること..
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出雲文字 2 蝦蔵に弟子入り(承前) やっとの思いで江戸まで辿り着いたものの勝手に「脱藩」し「出奔」した彼は謂わば「無宿者」ですから、幾ばくかの手持ち金が潰えれば路頭に迷う事になるのは確実でした。大消費地でもある江戸には、確..
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銭湯と山東京伝江戸の市中で、東洲斎写楽という浮世絵師の噂が聞こえてこなくなってから数年、彼の一番の理解者でもあった耕書堂・蔦屋重三郎(1750~1797)がわずか四十八の若さで他界した。脚気が原因の一つだとも伝えら..
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雑話07「大江戸の正体・正誤」その2前回に続いて「大江戸の正体」から「御能拝見」関係の項目を採りあげます。長くなりますので別にしました。 219 能は幕府にとっては最も重要な式典用の芸能であった。とくに「御大礼能」(将軍宣下・官..
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落語の中の言葉111「太郎稲荷」林家彦六「ぞろぞろ」より 彦六師匠はこの咄の舞台を浅草田圃の太郎稲荷前の茶店としている。太郎稲荷は猛烈にはやったかと思うと一、二年でパッタリと参詣人が無くなるということを..
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大田南畝の筆跡鑑定、その三資料探しをしていた折、偶然、大田南畝(蜀山人)の奥書を持った『舞曲扇林』という書物に出会ったので、紹介しておきます。これは初代・河原崎権之助(1596から1690)という歌舞伎役者が、元禄時代の初め頃..
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南畝の筆跡鑑定、その二大田南畝(蜀山人)が本業である勘定所での勤務の合間を利用して、書画会などを開いたのには相当の理由があった。研究者たちによれば、色紙や画などに「蜀山人」と一言書き入れるだけで「弐朱」つまり一万数千円程度..
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「方角分」を勝手に筆跡鑑定する今回は国立国会図書館が収蔵している『諸家人名江戸方角』の奥書と、立教大学付属図書館が収蔵している『自筆蜀山百首』の奥書を並べてみた。画像の左側が「方角分」で「此書」の部分のみを切り取ってある。右側が「..
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偽筆の天才・文宝亭文宝大田直次郎(南畝)を狂歌の師として仰ぎ、書画会などを取り仕切っていたのが文宝亭文宝の狂名で知られる亀屋久右衛門(1768~1829)で、飯田町にあった茶商へ婿養子として入った人物。別号を食山人、散木と..
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「武鑑」と写楽と斎藤与右衛門江戸の町で浮世絵師の東洲斎写楽が活動したのは寛政六~七年のこと。御家人の大田直次郎(南畝、蜀山人)が絵師のガイド本の原型とも言うべき『浮世絵考証(浮世絵類考)』を書き始めたのが、恐らく寛政十年頃か?そ..