記事「大田南畝」 の 検索結果 45 件
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浮世絵類考と異国船御家人の大田直次郎(南畝、蜀山人、1749~1823)が第1回の学問吟味を受けた、寛政四年九月、北海道根室にロシア使節が来航したが、幕府は長崎入港に必要な「許可証」のみ発行し、一切の交渉には応じなかっ..
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写楽を「見た?」絵師の名は月窗(国会図書館が収蔵している『諸家人名江戸方角分』部分的に加工修正済) 上に貼り付けた「江戸方角分」は、歌舞伎役者の三世瀬川富三郎が、文政元年(1818)頃に作成し、大田南畝の元に持ち込んだ物とされて..
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武江年表と浮世絵類考(武江年表の寛政十二年の項。武江とは武蔵国江戸の略) 江戸神田の草創町名主であった斎藤月岑は、ペリー来航の直前にあたる嘉永二、三年にかけて江戸の出来事を編年体で記した『武江年表』八巻を刊行している。..
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兎園小説は戯作者の曲亭馬琴(1767~1848)が、今からおよそ200年前の文政八年に、自らが主宰して当時の文人仲間十二名を集めて作った同好の集まり兎園会で語られた、珍しい話や奇妙な話を編纂した資料集で、WEB..
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式亭三馬が滑稽本『浮世風呂』で人気を博したのは文化年間。その式亭三馬が、大田南畝が寛政頃記し始めた『浮世絵類考』に、 写楽 号 東周斎 江戸八丁堀に住まいす、 の一文を書き加えたのは、文政二年から四年の..
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写楽も写楽斎も江戸の人々にとっては「同じ」だと言う研究家もいるのだが、写楽が残した筆名は東洲斎写楽であって「東洲斎」写楽斎ではない。 寛政二年の序を持つ『駿河舞』は喜多川歌麿が画を担当しているもので、当時の江戸名..
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東洲斎写楽の同時代資料は『江戸方角分』の他に、もう一つある。徳川幕府の御家人で勘定所に勤めていた大田南畝(1749~1823)が記した、『浮世絵類考』という書き物がそれで、写楽研究の基本になっている。戯作者で自ら..
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2019年度 日本史B 本試験 解答番号22平成31年度(2019年度)センター試験 日本史B 本試験 解答・解説 第4問B-4 解答番号22 正解:4 配点:2 解説: アは狂歌。 大田南畝(太田蜀山人)は国学や和歌..
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「一郡総社葛飾大明神」は何所にあったのか? -荒れ果てた神社-葛飾土産/永井荷風に出てくる「荒れ果てた神社」について 松杉椿のような冬樹《ふゆき》が林をなした小高い岡の麓《ふもと》に、葛飾《かつしか》という京成電車の静な停車場がある。 線路の片側は千..
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松平定信と江戸の文芸との関わりについて書いてみました。 「老中・松平定信と江戸文芸」 http://www.ten-f.com/sadanobu-to-bungei.html 「オノコロ..
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いつの世もお金は大切なもの。 「天下の回り物」とは言うものの、 自分の懐具合は余り良くありません。 「それにつけても金の欲しさよ」 http://www.ten-f.com/sorenitu..
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金子直德 (かねこなおのり)ーー「雑司が谷」研究の先達ーー 覚え書き金子直德ーー寛延3年(1750)〜 文政7年(1824)ーー 明和年間から天明、寛政を経て化政年間まで 雑司が谷に居を構えた俳人、法華宗の大檀越。 幼名は竹次郎、成人してからは民次郎、貞..