記事「山上憶良」 の 検索結果 123 件
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友人宅訪問で考えたこと昨日、所用で友人宅を訪ねた。考えてみると、用事がなければなかなか会うこともなくなった。若い頃は、「コーヒーでも飲もうや」という電話一本で待ち合わせたものだった。特に用事というようなことはないが、ちょ..
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世界一クソ面白くない相撲をホンの少しだけ面白くする投稿…ってタイトルにしようと思ってたら、大はずれ。われらがプリンス琴ノ若が勝って再び…勝負ってのはやってみなければ分かんないもんですね。 思えば、昨日の番狂わせ、まあそういっていいでしよう、琴ノ若○ー●霧島 のせいで前の記事のタイトルも的外れになってしまいました。 あ、ひとんで..
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柿本人麻呂の謎 14 「死」に臨み(承前) この項とは直接関係のない事柄になりますが、柿本人麻呂と並んで万葉歌人として有名な山上億良(やまのうえ・おくら)は大宝元年(701)当時、無位、つまり唯の人に過ぎませんでしたが「続日本紀」..
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2023.3.31歴タビ:嘉麻③鴨生憶良苑歴タビ嘉麻の続きです。 憶良が728年(神亀5年)7月に巡察のため訪れ、 嘉麻三部作を選定したという嘉麻郡(かまこおり)役所。 その少し先に鴨生憶良苑はあります。 鴨生憶良苑は万葉学者の犬養孝..
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2023.3.31歴タビ:嘉麻②嘉麻郡役所跡憶良が728年(神亀5年)7月に巡察のため訪れたという 嘉麻郡(かまこおり)役所。 嘉麻三部作を選定したところです。 そこに石碑があります。 その場所は嘉麻市消防団稲築方面隊第三分団鴨生分隊の..
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H14:2023.3.31歴タビ:嘉麻①鴨生公園2023.3.31、嘉麻市へ歴史の旅へ行きました。 まずは山上憶良の歌碑が3基つある鴨生公園へ。 憶良は726~732年頃の6年間、筑前国守を務めました。 728年(神亀5年)7月に..
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歴史書と万葉集【教科書まとめ】◆歴史書の編纂◆ 天武天皇のときから、神話や伝承、記録をもとにして天皇を中心とする歴史書の編纂が始まった。 奈良時代になって、『古事記』『日本書紀』として完成した。 ◆『古事記』◆ 『古事..
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18-3869大船に 小舟引き添へ 潜(かづ)くとも 志賀の荒雄に 潜き逢はめやも大船に 小舟引き添へ 潜(かづ)くとも 志賀の荒雄に 潜き逢はめやも 大船尓 小船引副 可豆久登毛 志賀乃荒雄尓 潜将相八方 右は、神亀年中(年代)を以(も)って、大宰府(の役人)が筑..
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16-3868沖行くや 赤ら小舟(をぶね)に つと遣らば けだし人見て 開き見むかも沖行くや 赤ら小舟(をぶね)に つと遣らば けだし人見て 開き見むかも 奥去哉 赤羅小船尓 □遣者 若人見而 解披見鴨
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18-3867沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻(た)みて漕ぎ来(く)と 聞こえ来(こ)ぬかも沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻(た)みて漕ぎ来(く)と 聞こえ来(こ)ぬかも
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18-3866沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良(やら)の崎守(さきもり) 早く告げこそ沖つ鳥 鴨とふ船の 帰り来ば 也良(やら)の崎守(さきもり) 早く告げこそ 奥鳥 鴨云船之 還来者 也良乃埼守 早告許曽
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16-3868沖行くや 赤ら小舟(をぶね)に つと遣らば けだし人見て 開き見むかも沖行くや 赤ら小舟(をぶね)に つと遣らば けだし人見て 開き見むかも 奥去哉 赤羅小船尓 □遣者 若人見而 解披見鴨
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