記事「崇神天皇」 の 検索結果 72 件
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大国主命と天津彦根命 3(承前) 「ハツクニシラス」という最上級の称号を贈られた崇神天皇は、国中に「役病」が蔓延し「人民」の多くがバタバタと倒れる事態を大いに憂い、身を清め床をも清めて神意を問うと、ある夜、大物主大神が夢..
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オオクニヌシの原像 3(承前) そして彼(天穂日命、天菩比神)は、当サイトが天津彦根命と同神だと推測している天若日子より前に葦原中国に使者として遣わされ「大国主神に媚び付きて三年に到るまで復奏しなかった」とされる神様で..
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崇神と垂仁 4(承前) ホムツワケ王子の特異な出生譚そして出雲の大神による「祟り」と神との和解、それを実現した祀り事の第一人者としての曙立王家の存在など、古事記が王子に与えている特別な待遇(特記)は、この物言わ..
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崇神と垂仁 3 神宝事件(承前) 垂仁帝は記紀が多彩な伝承を採録しており、その実在自体を疑う史家も限られているようですが、不透明な部分が少ない訳でもありません。その筆頭にあげられる事柄が皇后狭穂姫との間に生まれた誉津別命..
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崇神と垂仁 2 神の怒り(承前) 多くの論者が崇神天皇を大和初期王朝の開祖であると考え、その王家が「崇神--垂仁--景行」と血脈が途絶えることなく続いたとする立場を取っていますが、偉大な創業者が苦心の末「初めて」行った天..
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崇神と垂仁 1 神祇の本質第十代崇神天皇の治世に関して古事記は『ここに天の下太く平らぎ、人民富み栄えき。是に初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女の手末(たなすえ)の調を貢らしめたまいき。故、その御世を称えて、初国知..
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崇神は孝霊の子か 6(承前) 随分と前に読まれたかも知れない継体天皇に関連したページの記事を思い出される方もあるでしょう。これは宣化帝が即位の年の五月に出した詔勅とされている文言の一部です。大王自ら認めているように彼..
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崇神は孝霊の子か 4(承前) ところで、崇神天皇の名前には、もう一つ帝室系譜を探るのに適したヒントが隠されています。それが「御間城、ミマキ」という文言に他なりません。 また、彼の配偶者の一人が孝元の息子・大彦命の..
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崇神は孝霊の子か 3(承前) 同じ推論を崇神にも当てはめることが出来ます。記紀などは開化帝と伊香色謎命の子供がミマキイリヒコだとする系譜を掲げていますが「孝元--開化」と続く二代の大王たちの名前は、それぞれ「オオヤマ..
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崇神は孝霊の子か 2(承前) 記紀などが後世に伝えた逸話からは絶頂期の蘇我氏には、時の大王をも凌ぐほどの権勢があり、民衆も皆その存在を畏怖した様子が窺えますが、それだけ無類無比の立場にあったのであれば、どうして「第八..
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崇神は孝霊の子か 1古代史に関心を持ち、ある程度資料なども自分で調べ、それなりの知識を備えている人たちに『古代の大王・天皇で最も子孫の多いのは誰ですか?』と尋ねた時、咄嗟に景行帝と答える人は意外に多く居るかも知れま..
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日葉酢姫と垂仁天皇 2(承前) 垂仁帝の后妃と子供たちに関わる「問題点」については過去何度もオノコロ・シリーズで取り上げてきましたが、その推理の核となっている筆者の「瓊、玉、渟理論」を簡潔に言えば「書紀は王統の系譜など..