記事「東京」 の 検索結果 67036 件
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大石良雄等自刃ノ跡吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされました..
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赤穂義士墓地元禄16年(1703年)2月4日に切腹した赤穂義士46名のうち45名が直ちに泉岳寺に埋葬されました。その後、間新六、寺坂吉右衛門、萱野三平の供養墓が建てられ、合計で48の墓碑が主君浅野内匠頭の墓の傍ら..
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大石内蔵助墓大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老。元禄15年(1702年)12月15日未明、赤穂浪士を率いて吉良邸討ち入りを果たし、翌年2月4日、細川邸で切腹、主君と同じ高輪の泉岳寺に葬られまし..
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長矩公夫人之墓浅野内匠頭長矩夫人の名は阿久里といい、長矩との間に子には恵まれずに長矩の弟浅野長広(大学)を養子としていました。長矩の殿中抜刀の罪により赤穂藩が改易となると、阿久里は赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に..
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浅野内匠頭長矩墓浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝..
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首洗いの井戸(泉岳寺)元禄15年(1702年)12月14日、赤穂47士は本所松坂町の吉良邸に討ち入り本懐を遂げました。そして、赤穂47士は吉良上野介の首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上野..
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血染の梅、血染の石元禄14年(1701年)3月14日、 江戸城内松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかった浅野内匠頭は即日切腹となりました。浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅..
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大石内蔵助像(泉岳寺)大石内蔵助良雄は播磨国赤穂藩の筆頭家老で赤穂事件の中心人物。赤穂事件は演劇や映画の世界では「忠臣蔵」とも呼ばれていますが、「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にか..
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泉岳寺東京都港区高輪にある曹洞宗のお寺で、赤穂義士の墓所として有名。江戸時代初期には外桜田にありましたが、火災で焼失したために高輪に移転したそうです。その高輪への移転の際、助力した大名の一つに浅野家があった..
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高輪海岸の石垣石江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられていたもので、平成7年(1995年)に高輪2丁目20番(泉岳寺駅の東側周辺)の遺跡発掘調査で出土したものがここに展示されています。発掘調査では3段の石積..
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高輪大木戸跡宝永7年(1710年)に東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡。昭和3年(1928年)に国の史跡に指定されました。また、幕末期には伊能忠敬がここを全国測量の基点とした..
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品川第三台場嘉永6年(1853年)米艦隊来航にあたって海防の必要を認めて江戸幕府が築造した台場のひとつ。陣屋や弾薬庫の痕跡がよく残されているとして、無人島と化している第六台場とともに大正15年(1926年)10月..