記事「東京」 の 検索結果 67036 件
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二本榎の碑江戸時代にこの付近のある寺に大木の榎が二本あって、東海道を旅する旅人のよい目印になっていたそうです。それがそのまま「二本榎」という地名となって続きましたが、その後、町名変更等があっても、この「二本榎」..
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興意親王墓興意親王は正親町天皇の孫にあたり誠仁親王の第5王子となる安土桃山・江戸前期の皇族。慶長19年(1614年)、豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑..
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旧細川邸のシイ東京都港区高輪の旧熊本藩細川家下屋敷(大石内蔵助他16名が切腹をした処)に植えられていて、推定樹齢は300年以上で、現在も当時のまま残っているスダジイ。樹高は10.8m、幹周りは8.13mあり、東京都..
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大石良雄外十六人忠烈の跡吉良邸討ち入り後、大石内蔵助他計17名は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷が預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、同屋敷で切腹しました。港区の都営高輪アパート内に切腹の跡とされる場所が残されています。
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大石良雄等自刃ノ跡吉良邸討ち入りに成功した赤穂義士46名は4つの大名家に分けてお預けとなり、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられました。そして、元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらさ..
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赤穂義士墓地元禄16年(1703年)2月4日に切腹した赤穂義士46名のうち45名が直ちに泉岳寺に埋葬されました。その後、間新六、寺坂吉右衛門、萱野三平の供養墓が建てられ、合計で48の墓碑が主君浅野内匠頭の墓の傍ら..
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大石内蔵助の墓大石良雄、通称大石内蔵助は播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂浪士を率いて元禄15年(1702年)12月15日未明、吉良邸討ち入りを果たし、主君の仇を討ちました。そして、元禄16年(1703年)2月4日に細川..
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長矩公夫人之墓浅野内匠頭長矩夫人の名は阿久里といい、長矩との間に子には恵まれずに長矩の弟浅野長広(大学)を養子としていました。長矩の殿中抜刀の罪により赤穂藩が改易となると、阿久里は赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に..
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浅野内匠頭長矩の墓浅野内匠頭長矩は播州赤穂藩藩主。元禄14年(1701年)3月14日、 殿中松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかり即日切腹。ここから赤穂義士の物語が始まりました。浅野内匠頭の墓は浅野家と所縁のあった東京芝..
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首洗井戸(泉岳寺)元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂47士は吉良邸に討ち入り吉良上野介の首をあげることに成功しました。47士はその首を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えましたが、その時に、この井戸で吉良上..
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血染の梅、血染の石元禄14年(1701年)3月14日、 江戸城内松の廊下で吉良上野介に突然斬りかかった浅野内匠頭は即日切腹となりました。浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅..
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大石内蔵助像(泉岳寺)大石内蔵助良雄は播磨国赤穂藩の筆頭家老で赤穂事件の中心人物。赤穂事件は演劇や映画の世界では「忠臣蔵」とも呼ばれていますが、「忠臣蔵」という題名の由来は、蔵一杯の忠臣という意味や、大石内蔵助の「蔵」にか..