記事「東海道五十三次 静岡市を歩く」 の 検索結果 56 件
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東海道53次 府中宿への道2追分を過ぎて東海道線の踏切を渡ると平川地に入る。さらに進んでいくと久能寺観音道の石碑が有り、左折して有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺を通って久能寺(現鉄舟寺)に至る道です。向かい側には東海道の名前の由..
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東海道53次 府中宿への道1江尻宿西木戸跡を府中宿に向かって800メートルほど行くと追分の道標が建っている。ここは江尻宿方面と府中宿方面、久能山方面の追分になっている。横に老舗の追分羊羹がありますが写真はご遠慮くださいということ..
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東海道53次 江尻宿の9東海道の入江の交差点を右折すると左側に浄瑠璃、朝顔日記のヒロインで知られる「深雪」のお墓のある「法岸寺」。少し行った右側に江尻城の裏門を山門にした「東明禅院」。その先右側に、飢饉のおり、さつま芋を普及..
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東海道53次 江尻宿の8稚児橋を渡って100メートル、入江町の交差点右側に「いちろんさんのでっころぼう」という郷土民芸師、堀尾市郎右衛門さんの工房が有ります。「市郎右衛門さんの木偶の坊」という意味だそうです。初代、市郎右衛門..
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東海道53次 江尻宿の7江尻宿に戻って銀座通りを左に折れると稚児橋に出る。慶長12年徳川家康は東海道53次を作るにあたり巴川に橋を架けるよう命じた。初めは、江尻宿に架かる橋で江尻橋と付ける予定だったが渡り初めの日に巴川から童..
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東海道53次 江尻宿の6静岡市清水区港町に清水次郎長が晩年開業した船宿「末広」が平成13年、創業時部材を使って復元し展示場になっています。慶応4年咸臨丸の乗組員の遺体を収容、埋葬したことで山岡鉄舟と昵懇になり、その後の有度山..
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東海道53次 江尻宿の5稚児橋を渡る前に寄り道をして静岡市清水区美濃輪町にある次郎長生家へ行ってみましよう。清水次郎長は文政3年(1820年)1月1日生まれ、本名を山本長五郎。母方の叔父で米穀商の山本次郎八の養子となる。次郎..
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東海道53次 江尻宿の4巴川と並行して東海道は清水銀座の中を志茂町、仲町、魚町と通っている。この辺りに本陣、脇本陣、旅籠が並んでいましたが、現在は江尻宿の碑が残っているだけです。銀座通りの突き当たりには魚町稲荷神社があり右折..
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東海道53次 江尻宿の3江浄寺を過ぎて南へ歩いていくと清水銀座に当たります。銀座商店街の中程が江尻宿の中心です。永禄12年(1569年)武田信玄が駿河へ侵攻し江尻城(小芝城)を築き城下町となって発展した。慶長6年(1601年..
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東海道53次 江尻宿の2細井の松跡を南へ進んで行くと右手に秋葉神社の參詣道の秋葉道があります。少し行くと江尻宿の東出入口だった江尻宿東木戸跡(辻村の木戸)がある。江尻とは巴川の入江の下流(尻)ということから付いたとされる。こ..
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東海道53次 江尻宿の1興津宿を出て東光寺を過ぎ庵原川を渡り、細いの松原跡を右に入ると江尻宿の入口になる。江尻宿は東海道53次の18番目の宿場で本陣3軒(橋本、寺尾、羽根本陣)、脇本陣3軒(大竹屋、府中屋、翁屋脇本陣)旅籠5..
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東海道53次 興津宿の6興津の清見潟は気候の温暖なことと風景の素晴らしさから別荘地として井上馨の長者荘や伊藤博文の独楽荘、西園寺公望の坐漁荘などが作られました。坐漁荘(ざぎょそう)は最後の元老、西園寺公望公が晩年過ごした別荘..