記事「歴史」 の 検索結果 41222 件
-
石田三成の実像27 三成の長女の夫「山田隼人正」石田三成と正室の間には三男三女がいたということを白川亨氏は明らかにしておられます。側室の子もいましたが、それはまた稿を改めて述べます。 長男重家は前にも触れたように出家して宗亨となり、103歳の..
-
京都探訪4 「随心院」と小野小町小野小町ゆかりの寺であり、地下鉄東西線の小野駅から歩いて数分の距離にあります。小野の地は 小野一族の栄えた土地で、小野小町は小野篁の孫に当たり、日本を代表する絶世の美人と言われていますが、その人生は..
-
京都探訪3 「誓願寺」誓願寺は京都の繁華街新京極の一角にあるお寺で、昔からその存在は知っていましたが、中に入ったのは、昨年の大晦日が初めてでした。 私が知っていたのはその寺が落語にゆかりのある寺だったからで、55世の..
-
石田三成の実像17 「明石掃部」2 大坂の陣における活躍昨日のラジオで放送していた八幡和郎の講演の中で、関ヶ原の戦いの際は、秀吉夫人の北政所と淀殿がいずれも家康派でも三成派でもなく中立だったと述べていました。北政所イコール家康派、淀殿イコール三成派という..
-
石田三成の実像16 「明石掃部(かもん)」1 関ヶ原まで学研M文庫に入っている森本繁氏の「明石掃部」を読みましたが、三成の描き方に不満を覚えました。関ヶ原に家康におびき出されたこと、それは佐和山城を奪われるのを恐れた三成の偏狭さから来ること、彼は官僚政治..
-
石田三成の実像15 「黒田如水」家康は黒田長政に関ヶ原の戦いの功で福岡53万石を与えますが、長政の父親の黒田如水は関ヶ原の戦いの際には、九州で別行動を取っていました。浪人たちを集め、西軍の城を次々に落としていきますが、それは家康に..
-
石田三成の実像14 「黒田長政」7 蔚山倭城籠城戦黒田長政は慶長の役の際は、毛利秀元を総大将とする軍に加わり、全羅道から忠清道に進みました。黒田隊は97年9月に稷山(しゃくざん)の地で明軍と戦い、やや押され気味でしたが、毛利秀元が救援に駆けつけたた..
-
石田三成の実像13 「黒田長政」6 晋州城 機張倭城黒田長政は93年6月に行われた第二次晋州城攻防戦に、加藤清正たちと共に第一隊として加わりました。第二次というのは、前年の10月にも細川忠興たちが2万の軍で攻めたことがあるからですが、6日にわたって攻..
-
石田三成の実像12 「黒田長政」5 碧蹄館の戦い・幸州山城の戦い黒田長政が五番隊として参加した碧蹄館(へきていかん)の戦いが起こったのは、1593年の1月26日のことであり、立花宗茂や小早川隆景の活躍が特に有名ですが、そのかげには三成の戦略が大きく働いていまし..
-
石田三成の実像11 「黒田長政」4黒田長政は黒田官兵衛孝高の子として1568年に姫路で生まれましたが、松寿丸と呼ばれていた11歳の時に、信長に殺されかけたことがありました。荒木村重が信長に反旗を翻した時、信長側の黒田孝高が単身、村木..
-
石田三成の実像10 黒田長政3関ヶ原の戦いの後、捕らわれて大津城の城門につながれた三成が、黒田長政にねぎらわれた後、西軍を裏切った小早川秀秋の姿を見かけて罵声を浴びせたと言われています。太閤の縁者でありながら、その恩を忘れ、家康..
-
石田三成の実像9 「黒田長政」2関ヶ原の戦いに敗れ逃げていた三成がつかまったとき、家康は三成を見世物のように大津城の城門のそばの木につないでおきますが、福島正則は「これが五奉行のなれの果てか」と言って嘲ります。が、三成は「おまえの..