記事「歴史」 の 検索結果 41334 件
-
カミュやサルトルの実存主義では、“人間の自由と苦悩・人生の価値”をどう考えるか?カミュのエッセイ『反抗的人間』では、明晰な理性で世界や人生を観察する時に出現する非合理的な説明のつかない不条理に対して、迷信(神の信仰)で目を背けたり自殺で逃げたりすることを批判し、その運命的とも言え..
-
キリスト教の“原罪‐贖罪”と仏教の“煩悩‐解脱”の人間観:親鸞の一切皆苦の受容戦略西欧文明の『罪』を背負った人間は、キリスト教の贖罪や精神分析による内面(無意識)の分析によって癒されますが、東洋文明の『苦』を背負った人間は、仏教の涅槃寂静(煩悩消尽の悟り)や極楽往生、あるいは俗世(..
-
キリスト教の普遍性を求める世界観とヨーロッパの大航海時代2:プラトンのイデア論と知覚・存在を巡る議論個人の自由・権利・楽しみを最大限に尊重する“人権思想・自由主義・男女平等”というのは、十分な世俗化を遂げたキリスト教からは生み出されたが、イスラーム圏ではそういった個人レベルの自由や楽しみ(宗教規範の..
-
キリスト教の普遍性を求める世界観とヨーロッパの大航海時代1:ポルトガル・スペインの隆盛期現代の世界秩序や社会制度の大枠を規定しているのは“近代”の価値観であり、ヨーロッパに発した近代的価値観の多くは『キリスト教』にその起源や原動力を持っている。世俗的な法治主義の古代ローマ帝国を宗教化して..
-
奥州・蝦夷の歴史は“米の文化・中央の権力”とどう向き合ったか3:松前慶広と豊臣・徳川政権への同化奥州藤原氏ははじめ本拠地を江刺郡豊田館(奥州市)に構え、その後に磐井郡平泉に拠点を移して1108年から中尊寺金色堂の造営を開始しているが、奥州藤原氏は最後に確立された『蝦夷・俘囚の系譜』を引く中央から..
-
奥州・蝦夷の歴史は“米の文化・中央の権力”とどう向き合ったか2:安倍氏清原氏と武家の棟梁源氏平安時代中期には、陸奥に土着して支配領域を拡大していた軍事貴族の安倍氏がいて半独立的な勢力を築いていたが、朝廷への貢納を怠った廉で陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)が攻撃を仕掛けると逆にこれを打ち..
-
奥州・蝦夷の歴史は“米の文化・中央の権力”とどう向き合ったか1:稲作伝来が生んだ日本文化の基層前回の記事の続きになるが、平安時代前期の9世紀には、平安京の朝廷は蝦夷に対する直接の軍事活動を取りやめることになり、朝廷の蝦夷に対する支配領域の拡大は現在の岩手県・秋田県のそれぞれ中部付近を北限として..
-
蝦夷征伐の東北史から見る“日本人・大和文化”とは何か?3:坂上田村麻呂の東北経略と平安京の怨霊信仰大和と蝦夷の激戦地帯となったのは現岩手県の胆沢(いざわ)の周辺であり、780年(宝亀11年)に俘囚の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こして、陸奥按察使(むつあぜち)の紀広純(きのひろずみ)を殺害..
-
蝦夷征伐の東北史から見る“日本人・大和文化”とは何か?2:まつろわぬ者の蝦夷・アイヌと帰属意識統一的な近代国家の要件を備えた日本が明治期に成立するまでは、日本及び日本人の範囲は『天皇家・大和朝廷(平安京)にまつろう者(従う者)の集団勢力』によって規定されており、蝦夷・毛人(えみし)とは端的には..
-
蝦夷征伐の東北史から見る“日本人・大和文化”とは何か?1:中国の華夷秩序の影響と大和朝廷日本人は戦時中には“大和人(大和民族)”と自称する事が多く、男性社会を支える良妻賢母を育成しようとする女性教育では三従の“大和撫子”が理想とされた。日本が当時最先端の造船軍事技術を集積させた切り札の戦..
-
“戦いに対する反応”と“自分の負け・下位”を認める服従ディスプレイ:身分の上下から敬意の表現へ武器(凶器)を用いた戦闘では、どちらかが鈍器・刃物や銃器によって死亡するリスクがあり、それは即ち自分もしくは相手が重犯罪者として検挙・処罰されることにつながるので、争いで武器を持ち出す人は殆どいない。..
-
人間社会の“原始的な暴力”と“制度的な仕組み”による秩序形成2:現代のメリトクラシーと戦いの物語前回の記事の続きになるが、近代社会では『学歴・職業・所得・資産・地位』などに、自分の能力や努力、事績が反映されやすいという『機会の平等に基づくメリトクラシー(能力主義)』の前提が置かれている。学歴や職..