記事「猪間驥一」 の 検索結果 253 件
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弓家七郎の都市と人口問題1前回、東京市政調査会の都市計画グループについて触れましたが、このグループの動きが、猪間驥一の「人口の都市移住計画」(仮称)との関連で、非常に重要なものと私は考えています。 ここでのキーパーソンは、弓..
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猪間驥一の亡くなった日に本日は、猪間驥一が亡くなって、44年目の日に当たります。 昨年度に起こったことを説明するのは非常にむずかしいですが、けっきょく私は、まる一年、猪間驥一に関する研究をまったくやらなかったという扱いにな..
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鈴木武雄と石橋湛山1昨年の終わり頃から、とくに今年になって、気落ちさせられることがいろいろあって、しかもそれを誰かに話すこともできなくて、悶々とした日々を送っていました。 ブログではまとまったことは何も書くことができな..
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猪間の東大追放前後のこと2東京帝国大学経済学部『経済学論集』(旧巻)を読む機会がありましたので、確認できたことを記しておきます。 東京帝国大学経済学部『経済学論集』(旧巻) 【1922年度】 第1巻第1号(1922年6月..
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猪間の東大追放前後のこと1猪間驥一が東京帝大経済学部を卒業し、助手として残った後、肋膜炎を患った話を私は何度か書いていると思うのですが、猪間の『人生の渡し場』(1957年)にそのことについてきちんと説明した箇所があったのを失念..
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猪間の父、収三郎のこと先日、猪間驥一の弟、リュウジのことを書きましたが、猪間の父、猪間収三郎についても、いろいろなことが分かってきました。今これらを読んでいる時間がありませんので、情報だけ羅列しておきます。 ◎国立国会図..
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人口の都市移住と農村工業昨日の石橋湛山の小論「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張」(1954年)は、猪間の「人口の都市移住計画」(仮称)と湛山が推奨する「農村工業計画」とが矛盾するものではないことを示すため..
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リフレ政策が可能にしたものたまたま読んでいたものに、石橋湛山の「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張」(1954年)があったのですが、その出だしのところにこう書かれています。 昭和六年十二月..
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東洋経済新報社の物価指数古いほうの『石橋湛山全集』第15巻(1972年)に「石橋湛山年譜」というものがあって、その「大正14年(1925)41歳」というところに、猪間驥一の名前を発見しました! 9月2日 猪間驥一氏を加えて..
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糸井靖之の一冊だけの翻訳猪間驥一の師、糸井靖之についても、このブログでも何回か取り上げていますが、生涯、自著を残すことのなかった糸井が一冊だけ翻訳した書があり、それが国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めるようになってい..
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猪間の弟、リュウジのこと以前、猪間驥一の弟、リュウジのことを少しだけ書いたことがあると思います。 リュウという漢字、馬ヘンに留と書くのですが、当用漢字にはない文字で困ってしまいます(どこかに「馬留二」という表記を見つけたの..
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人口の都市移住と都市計画6ここで、猪間の考えていた「人口の都市移住計画」(仮称)=「1930年代都市計画」がどのようなものであったのかを簡単に整理しておきます。 これが『都市問題』1937年8月号に「都市と人口」(4)として..