記事「新潟」 の 検索結果 9344 件
-
物見の松跡北越戊辰戦争の際、新政府軍がこの地に本陣を置いたとのこと。 その時に長岡方面の情勢を探るため、兵士が松によじ登り敵情をみたことから「物見の松」と名づけられたそうです。
-
草生津渡し跡信濃川を渡る渡船場跡で現在は長生橋が架かっています。 慶応4年(1868年)5月19日未明、長州藩決死隊約100名は、信濃川西岸 のこの付近から強行渡河し、中島に上陸を果たし、長岡城を攻撃しました。
-
昌福寺新潟県長岡市にある曹洞宗のお寺で山号は万融山。 北越戊辰戦争では長岡藩の治療所として使われ、またその後、明治2年(1869年)には小林虎三郎がこの寺の本堂を借りて国漢学校を開校したところでもあります。..
-
維新の暁鐘新潟県長岡市の西福寺境内にある梵鐘。 慶應4年(1868年)5月、新政府軍の来襲を知らせるために、この鐘が乱打されました。 近代の夜明け告げたことから「維新の暁鐘」と呼ばれているそうです。
-
西軍上陸の地慶応4年(1868年)の5月19日早朝、新政府軍は洪水の信濃川を 強行渡河して長岡城を攻撃する策を立て、ここ中島に上陸。 長岡軍は必死に防戦しましたが総退却し、ついに長岡城は落城しました。
-
開戦決意の地越後長岡藩の家老河井継之助は、武装中立論を唱えて戊辰戦争の局外 に立とうとしましたが、新政府軍との間で行われた小千谷会談は決裂。 河井は前島を守備していた親友の三島億次郎を訪ね、開戦を決意をしました。..
-
光福寺新潟県長岡市摂田屋にある浄土真宗本願寺派のお寺で、 北越戊辰戦争の時に長岡藩の本陣が置かれていた場所です。 慶應4年5月3日、河井継之助は此処に藩士を集め開戦を告げました。
-
長岡城址長岡城は北越戊辰戦争の激戦地となった城。新政府軍の攻撃により一度落城。同盟軍がそれを奪還し、そしてまた落城。城下も被災し、会津戦争を上回る悲惨な戦闘だったと伝わっています。
-
山本家墓山本家は武田信玄の軍師山本勘助の血脈と云われている家系で、 代々越後長岡藩の家老職を務める家柄でした。 連合艦隊司令長官であった山本五十六元帥の墓もここにあります。
-
河合継之助墓(長岡)新潟県長岡市東神田「栄凉寺」境内にある河井継之助の墓。 河井継之助は長岡藩筆頭家老として北越戊辰戦争を主導し、 城下を壊滅状態にしたため、その恨みの傷跡が墓石につけられています。
-
山本五十六生家山本五十六は明治17年(1884年)、越後長岡藩士高野貞吉の第6男として誕生。 大正4年(1915年)に、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続して山本五十六となりました。 太平洋戦争時には連合艦隊司令..
-
河合継之助像河井継之助は幕末期の越後長岡藩の家老で、武装中立論を唱えて 藩が戊辰戦争に巻き込まれることを極力避けようとしましたが、結果的には、 会津戦争以上に悲惨と云われた北越戦争に巻き込まれることになりました。..