記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
常州府中宿親敵討一件二月十二日 御届 溝口主膳正内 寺田数右衛門 去年十月廿一日暁、主膳正在所(※1)にて、足軽飯島量平と申す者当番留守宅へ、傍輩足軽飯島惣吉と申す者踏込み、量平母を殺害に及び、同姉へ疵負わせ、..
-
内藤新宿桜樹一件新宿南側裏手、玉川上水土手通り三丁程へ、桜樹大小木二月十三日より植え初め、凡七十五本植え付け、下へ芝を敷き、丸太にて駒寄を構え、此の如く木札を建てるなり。 御用木折取べからず 右桜樹植え込..
-
安政三年正月、尾張殿参府延引御願之事尾張殿当三月参府致されるべき処、勝手向き必至と不手繰にて、甚だ難渋の上、去年七月・八月領分両度の大風雨にて、城内を初め、民家に至るまで所々損所倒家少なからず、或は堤切所・難所、浜手の儀は海岸の堤一円切..
-
日光御門跡御使、阿部伊勢守殿宅へ持参の御書付富くじは、番号入りの札や券などを販売し、抽籤 (ちゅうせん) など偶然により当籤者を決め賞金を支払うくじ。江戸時代には、興行主が番号入りの富札 (とみふだ) を売り、別に用意した同じ番号の木札を箱に入..
-
岩城雅五郎岩城雅五郎 (二万石羽州由利亀田藩主※) 一類(注1) 南部遠江戸守 (二万石陸奥八戸藩主※) 戸沢上総介 (六万八千石出羽新庄城主※) 佐竹左近将監 (二万石出羽岩崎藩主※) 右..
-
十一月二十二日両国橋皆出来に付、渡初めの規式有之安政二年十月二日に安政江戸大地震が発生した。藤田東湖が圧死するなど大災害があった。両国橋も相当な損害が有ったろうが、翌月十一月二十三日には修理が整い、渡り初めが行われている。その様子。 十一月二..
-
浅草阿部川町鉄砲鍛冶、自身番屋打壊し囚人を奪連行一件浅草阿部川町万屋と申す酒屋の向、片町に御用西洋流御鉄砲製造場出来、此の節西洋鉄砲御貸筒三千挺鋳立に相成るに付、毎日毎日職人共八十人宛も入込む由。然る処に若年寄本多越中守抱えの鉄砲鍛冶、殿より御誂えの西..
-
七月十六日 隅田川身投心中一件御持弓頭、服部仲組、同心 丸山鐘之助(23) 牛込赤城下、御持組屋敷、同人妻とよ(18) 右とよ義は、牛込赤城下築地片町に住居、母壱人有り、小石川伝通院前の坂東三津江の門弟にて、坂東三登代と..
-
四ツ谷大木戸喧嘩尾張殿御家老 鈴木主殿家来 若党・中間 右、市ヶ谷加賀屋敷より主人用向きにて、両人内藤新宿迄使いに参り、用事相済、帰りに茶屋にて酒給酔い、酒狂いの上、戯れに若党と中間、身形を取替、侍麻看板を着し..
-
野鼠安政二年六月晦日出 出羽国へ野鼠多生、作物を喰い荒らす義申上げる書付 御代官 羽田十右衛門 私御代官所当分御預所、出羽国村山郡村々之儀、山寄にては毎春雪解け後、末々の百姓共、蕨・百合・葛根..
-
鰯売り八文の間違いにて大喧嘩に相成る事五月十六日、四ツ谷御門外新道鈴木という鱣(※1)屋にて、雑魚場鰯売りを呼込み、値段承り、五十六文と申す間、鈴木女房、八文負けろと申す処、肴売、八文に負けろと間違え、立腹致し、馬鹿を言うな、お前の所で五..
-
花川戸質屋へ生首持参の押込浅草花川戸町 榊 定次郎 右見世にて番頭始若者、出入勘定致し居る処へ、軽き武士躰の男脇差を帯し手に小包を持来て見世へ上がりて、番頭に対面致し申すは、我等金子入用に付、百両貸呉れ様、尤質物を持参..