記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
四月六日、丑ノ刻、京都出火大宮御所より出火致し、仙洞御所へ火移り、折節烈風にて直様に禁裏御所へ飛火致し残らず炎上、公家衆も余多類焼致し、御所にも最初は下鴨社へ臨幸成される処、風筋悪しく、直様森御所・聖護院宮へ御幸成らせられ、当..
-
四月十日 相撲初太鼓也両国回向院に於いて、春相撲興行 勧進元 廿山要右衛門 差添 粂川新右衛門 東大関 小柳 西大関 鏡岩 四月十一日、角力初日取組の処に、今月六日、禁裏炎上に付、今日より三日の間相休み、十五日..
-
三月四日 神田明神社家 品川監物今朝、加役同心森徳三郎手にて、手先明神丸勝其の外四人宅へ踏込み捕え、ぐるぐる巻きに致し、湯島五丁目番屋へ連れ行く也。 右監物は茶の湯の名人にて、大名方へ招かれ、諸家へ出入り致し、御客来茶等の節は..
-
新吉原のさくら当年も花の三月にて相替らず桜樹を植えて、花は時をたがえず盛りの色を見せ得ども、御客は一向に盛りにならず、毎年早春に出す細見記(注1)も漸く四月二十日に出す仕合不景気と見え、珍しき引手茶屋(注2)や引札..
-
盛岡一揆之儀、或方より申参候写南部領の内先年より数度の御用金、或は国の品一切御買上、此の節国中一統困窮差迫り、当春より村々一揆の催し風説有る処、当月初旬より処々蜂起致し、銘々棒・鎌、或は鳶口、又は農具の類携え、是迄御掛り相勤め下々..
-
人相書江戸時代の人相書きは、犯人の特徴をとらえた「似顔絵」と思われがちで、そう演出した時代劇も有ったが、実は違っていた。「箇条書き」である。珍しい脱獄記録。 安政元年正月二十四日、小伝馬町石出帯刀御預..
-
安政東海地震安政時代には、何れも南海トラフを震源域とする元年11月4日に発生した「安政東海地震」、翌11月5日に「安政南海地震」、そして安政ニ年の「安政江戸地震」があり、その他中越・飛騨地震、八戸地震、伊賀上野地..
-
下田湊に渡来の露西亜船長崎奉行・下田奉行へ相達する趣 下田湊に渡来の露西亜船、去る四日大津波にて破損に及び、渡海成り難く、浦方へ引き揚げ修理の義、不慮の天災故、余儀無き次第にて、此度限り出格の訳を以て、伊豆国君澤郡戸田(..
-
英吉利国大軍艦、都合四艘入津、願之書1854年頃は、ペリー来航、プチャーチン来航、前回述べた様に清国に於いては太平天国の乱、そしてヨーロッパに於いてはクリミア戦争。日本にも色々な国際情勢がもたらされる。今度はイギリスから。 長崎之..
-
安政元(1854)年 清国騒乱記当時(現在の)唐国騒乱の次第申上げる様、お尋ねの趣承知仕る。 右は道光三十年の頃より激しく相成り、広西・広東の賊徒相集まり、洪秀全・楊秀清と申す両人張本人にて、同類次第に相増し、脇徒の者少なから..
-
四月八日、揚屋入り仰せ付けらる真田信濃守家来 高百五十石 木挽町に住宅 蘭学者 佐久間修理 右は門弟吉田寅次郎義、下田湊にて亜米利加船に乗組み居る処、与力に見つけられ召捕られ、御吟味有る処、去年六月、浦賀へ異国船渡来の節、..
-
北蝦夷地クシュンコタン上陸異国人へ出張家来の者応接取調クシュンコタンとは樺太のこと。久春古丹とも書くらしい。上陸異国人はロシア人で国境線引きを有利にするためにプチャーチンが遣わしたのかもしれない。この年の松前藩は南にアメリカ人、北にロシア人と大変だったよ..