記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
嘉永7年 松前表異国人一件日本とアメリカは嘉永7(1854)年3月、日米和親条約を結び、下田と函館の開港を約束する。そして、ペリーは条約締結後すぐ、下見として箱館に現れる。その時の混乱の様子。 亜米利加船松前箱館澗方見置..
-
細川越中守屋敷へ木下主計頭家来足軽廿六人、駆込願一件異国船が渡来するようになると、各大名は「固め」として沿岸警備に駆り出される。経済的負担も大きかったようだ。木下主計頭は九州の大名。石高二万五千石。 細川越中守様御門番外様組惣横目付より御物頭へ差..
-
浦賀館対面所へ亜米利加人アーダムス上陸致、御菓子幷御酒下され候事正月廿六日 今日浦賀館対面所へ亜米利加船将官アーダムス上陸致、御菓子幷御酒下され、此の度内海へ乗入れ仕る義は御国禁に付き、浦賀港へ乗り戻し候様申し談じた処、遠路罷越、空しく日を送るは難儀に付き、御返..
-
高六千石 本所猿江 御書院番頭 斎藤内蔵頭三宣大目付へ 異国船渡来の節、万一異変も及ぶ様子有らば、火消屋敷に於いて早盤木を打ち、万石以上で櫓を持つ向きも、同様盤木を以て、場末迄打継べし。右を承わらば非常の場合と心得、火の元等取締致し、詰場に罷り..
-
諸家上書嘉永6年のペリー来航後、翌年の再来航まで老中阿部伊勢守は諸家に意見を求めている。「藤岡屋日記」にはその上書の記載がある。「諸家上書 全」とありこれがすべてなのか。寺社・町・勘定奉行の連名、尾州公、仙台..
-
日本渡航記(番外編)昨日掲載した露西亜書簡に登場する使臣ボウチャチン(プチャーチン)は、渡航及び交渉記録の為副官に著名な作家を同乗させていた。イワン・ゴンチャロフ。藤岡屋日記からは外れて、彼の記した「日本渡航記」の一部を..
-
露西亜書簡露西亜全国一統之王、露西亜帝ニコラース第一世帝の名のレイタスカンセリイル此書牘を大日本の執政に呈す。 日本方今の形勢を塾察し両の帝国相隣の故を思い、存意を全く寄托し、是を帝国日本に送るに決せり、..
-
松平土佐守領分土佐国旗多郡中浜、漁師万次郎 Ⅴ扨夫より諸国遍環して、四、五年を経てワフに行、日本人を尋ね見れば、虎右衛門一人ありて出逢し、扨彼重助・伝蔵・五右衛門の事を問いしに、重助は死し、残り二人は日本へ帰り候と申し(万次郎四人と別れてより六ヶ..
-
松平土佐守領分土佐国旗多郡中浜、漁師万次郎 Ⅳ彼万次郎義、共々北アメリカへ連返り、無人嶋より日本人を連れ参り候よし以前の如く次第を咄し、此処に留置、手習学問等致し、年たけるに随い天文等ならひ、彼是覚え込、寵愛に預りける、扨此国は彼ワフ国と違いて、..
-
松平土佐守領分土佐国旗多郡中浜、漁師万次郎 Ⅲ扨、同年霜月の頃、ワフ国へ着けるに、惣此ワフ国と申すは、アメリカより6,7百里の渡海にして、人物言語アメリカに同じ、近年此処繁花の地なり、日本の大坂川口のごとし、諸国」の交易処にて国々の問屋多し、アメ..
-
松平土佐守領分土佐国旗多郡中浜、漁師万次郎 Ⅱ扨此墓をも能く弔い、夫より食物を求めんと所々方々廻りしに、辰巳の方に五、六人も入るべき岩屋在り、此処に五人共月日を送り、寒さ甚だしき節は五人共丸裸にて背中を合わせ寄合いて着物を集めかづきて只々ふるい居..
-
松平土佐守領分土佐国旗多郡中浜、漁師万次郎 Ⅰ先年亜米利加へ漂流致し、国許へ帰り居候に付、此度御用に付、江戸表へ御呼び出しに付、八月朔日国許出立にて、同十八日江戸着、屋敷へ着、翌十九日、留守居役・御老中方へ着届致候、九月御勘定奉行本多加賀守御役宅..