記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
皇国之廃興存亡「皇国の興廃この一戦にあり」は秋山真之がロシアとの日本海海戦に当たって述べた言葉として有名である。しかし、同様の言い回しを嘉永6年に露西亜軍艦が長崎に来航した際の、長崎奉行所が江戸幕府に提出した意見書..
-
合衆国水師提督上書、和解日本国帝に上つる書 外臣ぺルリは、東印度志那・日本海に備たる北亜米利加合衆国の兵勢を統率せる者なるが、今度本国より命ぜられて、好意を以て此国に差発し、便宜に応じて事を行べき大権を仮して、日本の政..
-
合衆国 伯理璽天徳(プレジデント)書翰和解北亜米利加合衆国の伯理璽天徳ミラルト・ヒルモオレ(三ラード・フィルモア)書を日本国帝殿下に呈す 予今、水師提督マッテウ・セ・ぺルリ(マシュー・ペリー)を以て、書を殿下に呈す。此者は則合衆国の海軍..
-
海防愚存嘉永6年6月にペリーが来航すると、7月3日に水戸・徳川斉昭が海防参与に就任する。そして7月9日に斉昭が老中阿部正弘に提出したのが「海防愚存」である。宛名は「福山殿」、通常の大名なら「伊勢守殿」と敬うべ..
-
異国船渡来の節、明石の藩山田真秋妻貞烈の事嘉永6年水無月初旬、亜米利加国より東印度志那日本海水軍提督彼理と云者、相州浦賀の洋中に軍艦四艘近寄、二艘彼の国の神器と唱大鉄炮彼軍艦に仕掛、亜米利加より我国へ書翰を捧げ、通商交易を乞と伝、是吾邦城昔よ..
-
狂歌嘉永6年のペリー来航に際し、様々な狂歌が作られた。上喜撰は宇治の高級緑茶で蒸気船とのかけ、阿部は当時の老中阿部伊勢守正弘。老若は老中・若年寄で幕閣の中心。 毛唐人抔と茶にして上喜撰 夜はうかされ..
-
6月4日 異国船応接の義に付、取計方奉伺候書付浦賀奉行 戸田伊豆守 昨3日御届申上げた亜米利加船四艘、島ヶ埼沖に滞船仕り、尤蒸気船等にて、別に深意御座候哉、外二艘碇入申さず、漂罷在り、追々組のもの遣わし、御国法相諭させ、仮令王の書翰にても通..
-
嘉永6年6月 海防全書・上嘉永6年6月に異国船四艘が浦賀沖に現れる。これ以降藤岡屋日記はP459よりP642までの183頁を「海防全書・上」として、各種報告書・指示書・海防の建白書等で埋め尽くされる。1月5日のブログに記した幕..
-
東葛西当にて、舟の喧嘩有之会津船一艘三人乗 田安殿船四艘三人乗にて拾弐人 右は関宿にて双方出合挨拶の節、会津は冠りもの取ったが、田安船頭は冠り物取申さず、事起こり、口論に相成ったが、双方共用先の事故、荷物を納めた上で..
-
鍋かむり嘉永6年9月 猿若町中村座は「花野嵯峨猫股双紙」という新狂言を演じる予定だった。しかし、これは佐賀藩の抗議で中止されてしまう。 市川小団次、高山検校の怨霊となり、猫股の怪、是は鍋島家に昔座頭の金..
-
南部百姓騒動一件、仙台より御届の次第嘉永6年8月24日 御用番へ御届 松平陸奥守国許、南部美濃守様御領分境、気仙郡本唐丹河原と申す所へ、6月6日、美濃守様御領分百姓共、大勢罷越の由、村方より注進申出に付、早速、郡奉行幷に目付・物..
-
浮世又平大津絵 Ⅳ弁慶鐘 芝に上野 三井寺へ行ふとはうぬ太いやつ 上への方よりなげし大かね 同役の早半鐘をやめにして 芝は大かね上野じんじん 1、評、是にもとづき弁慶が、三井から上の方へ、大かねをひつかぎ行か..