記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
嘉永3(1850)年11月 琉球人行列一件之事琉球通信使は江戸時代18回江戸へ上ったらしい。14年に1回の割合。江戸ではまず三田の大隅守(薩摩)屋敷に入り、将監橋、増上寺門前を過ぎ、芝口橋・幸橋御門を入り、大隅守上屋敷、その後日比谷御門に入り、八..
-
嘉永3年9月25日 炮術稽古御触之事御府内鉄炮稽古の儀、年々4月朔日から7月晦日迄が期日の処、近来海岸警護の趣も有り、専ら武備引立ての折り、炮術之義は海岸警護向第一の要術に付き、修行未熟にては万々一の非常の節、早速に役立たずのみならず、..
-
絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し8月8日 通三丁目寿へ絵草紙懸り名主八人出席致し、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取る事 書付 大筒の狼烟発する際に、驚怖の人物臥居る体の錦絵、内々に売買致した者は勿論、彫刻並に摺立てた..
-
嘉永3年8月3日 二話鍾馗の像 弘化3年の大火にて、神田旅籠町壱丁目市野屋市三郎類焼にて仮普請でいたところ、今度普請仕直し二階家に致し、両隣の鬼瓦睨み付けるとて、家の棟に鍾馗の像を左官に作らしめた。そして、普請成就の上見..
-
江戸市中、敵討之次第とて売歩書付の由来湯島横町伝兵衛店庄助と申す者、聖堂下樽屋榛原物置の脇へ荒物渡世の床見世を出していた。この者の生国は三河国設楽郡新城で、兄は清左衛門といい相当の百姓だったが、病気の節、三州新城に来ていて医道を修行する医..
-
因州松平因幡守初入部にて今日出立下馬評・・・幕府役人は大下馬で馬を降り、供を残して城内へ入る。そして、供回りは夕七ツ時(午後4時)の主人退出まで待つことになる。暇な下回りの者の会話は遊郭・賭博の事、上回りの者の噂は城内人事の事。いつ..
-
於浅草御場処借用致し、細川家家来五人、御手前仕置討首有之大名も小塚原の刑場を借りて、仕置きをする事があったらしい。 昨日、於千住御仕置場、刎首仰せ付けられ者共、別紙申渡書付の写しの通り、末々迄も承知致すよう、支配方へも御達しの事。 申渡 前廉御長..
-
中村勘三郎十三代目相続改名の事十八代目中村勘三郎さんがガンで亡くなって8年、まだ、50代だった。今の歌舞伎座が出来る前。十八代目が亡くなる160年前、嘉永3(1850)年、十三代目の相続改名があった。 3月3日 猿若町 中村..
-
嘉永3年2月5日 麹町五丁目火事之事2月5日、晴天大北風の処、朝四ツ時頃、麹町五丁目岩城升屋の岩城抱の鳶の者の家より出火し、同所一丁目表通り焼け、南側十間計残った。この辺り二番・八番・本所深川組で防いだ。西の方山元町、平川門前町焼け、其..
-
越前屋内遊女姿野由来之事 Ⅱさて、田町編笠茶屋・勝田屋栄治郎の紹介の姿野の客に、小日向水道町乾物商売の伊勢屋茂吉という者があった。茂吉は姿野に惚れ込み、なんとか身請けしたいとの相談を栄治郎とぜげん坂本二丁目江戸屋亀五郎としたとこ..
-
越前屋内遊女姿野由来之事 Ⅰ姿野の父親虎五郎は信州松本の生まれで、煙草入れの紙漉きで、女房は芸者の様な事をしていた。連立って江戸へ下り、少々のしるべを頼って牛込高田在源兵衛村へ落着き、紙漉きをし、夫婦睦まじく暮らしていた。文政8..
-
嘉永2年石州安濃郡朝倉村一件現在の刑法でも心身喪失の行為は、罰しないと書いてある。江戸時代はどうだったのか。 石州(石見の国)安濃郡朝倉村百姓徳平宅へ、無宿寛吾が来て押して止宿し、徳平を傷つけ徳平母なぎを打擲し打殺すという事件..