記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
横大工町糸屋中西の小僧、12才神田横大工町に中西三郎兵衛という糸屋があった。この店に昨年10月奉公を始めた小僧がいた。親は神田須田町に住まいする作事方小使で、年は60位、去年40位の女房を持ったが、此の女の連れ子だった。中西三郎兵..
-
人皇121代御即位につき、京都御名代弘化3年、121代天皇として孝明天皇が即位された。翌弘化4年祝賀を表すため、将軍の名代として雲州松江城主18万6000石、従四位左少将松平出羽守斉貴が京都に派遣された。この行列が江戸人の間で非常な関心..
-
三人娘身投げ一件弘化4年5月10日、三人の娘の水死体が永代橋際で発見された。三人は、新和泉町又兵衛店久助娘よね(18)、神田鍛冶町一丁目家主市右衛門娘ひさ(19)、神田鍛冶町二丁目喜兵衛店安兵衛娘ちか(18)、いずれ..
-
弘化4年 信濃大地震弘化4年3月24日四ツ過ぎ、信濃地方で大地震が発生し、被害は甚大だったようだ。ここに、善光寺を参拝し、被害にあった深川永代門前山田卜水母が子孫に残した手紙がある。その大意。 弘化4年3月10日よ..
-
堀数馬用人松田庄蔵忰万之助切腹の事阿洲(阿波)浪人広田庄蔵と申す者、子供は3人いた。惣領万之助は生来放埓者で、阿洲にいた時良からぬ事ばかりして、御咎めを蒙り、子の罪親にかかって、家内残らずお暇が出て浪人となった。築地の堀数馬殿内に親類..
-
麹町一丁目鳶春吉麹町平河天神は先年焼失したが今年再建され、参詣者のために百日間香具芝居を興行することを認められ、10月より興行を始めた。尾上三津十郎・式十郎・国助、その他大勢出て評判だった。 麹町一丁目の鳶春吉..
-
弘化3年大水の事令和元年も台風の影響で荒川が決壊するのではという危険もあった。弘化3年6月も連日の大雨で本所辺りが水害に見舞われる。その様子。 6月上旬より雨降りがちで、晴天といえども雨が降り、夕立もあった。3..
-
弘化3(1846)年5月2日エトロフ島19世紀半ばになると、外国人との接触も増えてくる。以下松前志摩守の報告書の大意。 私領分東蝦夷地エトロフ島内のルベツ見張所より壱里ばかり離れたモシエという海岸に、先月11日夕七ツ時(午後8時)頃..
-
楠多門兵衛正成所持の小龍の太刀現在上野の国立博物館に収蔵されている国宝の太刀「小龍景光」の話。楠木正成が所持したと言われている。 この楠公所持の小龍の太刀は、天保の始め頃本両替町(現在の日本橋本石町)の野田屋善兵衛から上野山..
-
相生町巴屋治郎兵衛、麹町火消やしき部屋頭早桶持参之喧嘩神田相生町の巴屋治郎兵衛は、藤堂家火消中間の宿屋の元締めで、古くからの御出入りで、御屋敷からの御手当もよく、実際の屋敷の鳶の世話は、八軒町にいる子分の巴屋七兵衛に任せて、随分豊かにくらしていた。治郎兵..
-
石河疇之丞 嘆願書天保改革を主導した鳥居耀蔵の下で情報収集役をしていた石河疇之丞の書いた嘆願書である。失脚を恐れた鳥居に甲府勝手に左遷させられた。嘆願書の形式だが告発状だ。大変頭が良かった人だったようで、相当な長文だが..
-
猫紛失珍談江戸時代の庶民は長屋に住む貧乏人のイメージだが、結構な金持ちもいたらしい。 浅草平右衛門町(現在の浅草橋一丁目辺り)に金御用達恪家持伊勢屋 染谷治助という者がいた。治助は猫好きで3匹飼っていたが..