記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
弘化2(1845)年5月 猿若町一丁目 専助地借 歌舞伎役者 団十郎其方は幼年より柔和で、父母の心に背く事なく芸道を心掛け、去る寅年(天保13年)に海老蔵はお仕置きになり、其方若年ゆえ父よりは給金は劣り、その上借用・厄介多く暮らし方に困っているなかにあっても、給金受取..
-
蘇生致し候者牛込原町続き 根来組屋敷 松平内匠頭同心 久保田吉蔵妻 とき(43) ときは長く血労を患い臥せっていたが、先月下旬より病態重くなり、4月7日夜四ツ時頃(午前2時)養生叶わず病死した。菩提所の牛込..
-
矢部駿河守定謙大坂町奉行時代、飢饉で苦しむ人々を救済して名奉行と謳われ、幕臣の間でも能吏にして人格者と評判が高かった矢部駿河守定謙(やべ・さだのり 通称は彦五郎。1789-1842)も、悲劇的な最期を遂げたことで知..
-
弘化2(1845)年 伊勢守へ伺之上内匠頭立会申渡天保改革では、物価の安定に奉行所が積極的に介入したようだ。しかし、それでは経済が窮屈になってしまう。下は老中阿部伊勢守と図った上で町奉行鍋島内匠頭が商人共へ行った申渡しの概要。 物価高は四民の困..
-
源頼光土蜘蛛の画之事歌川国芳の源頼光公館土蜘作妖怪図はネットで簡単に見ることができる。なかなか迫力のある画だ。解説には過酷な天保の改革での為政者と庶民を描いた風刺画だとある。では、実際に天保時代の人達はどう見てたのか。藤..
-
天保14年12月 御触書(たまには原文で)1.御蔵前取之面々、勝手向御救之為、蔵宿共ゟ是迄之借金は新古野之無差別、当冬御切米渡証文取替之節を限り、無利足年賦済被成下事。 1.右年賦済方は高百俵ニ付、当借百両以上は一ヶ年五両宛、同百両以下ハ元..
-
上知令 その後上知令が発表されると旗本衆は大混乱となった。そして、頼った先は・・・。 9月朔日 水野越前守 病気に付き登城無し。 惣出仕 紀伊殿登城 夜遅くなっての御帰館であった。これは、先達ての江戸・大..
-
天保14年 上知令江戸・大坂近辺は天領・旗本領・大名の飛地が複雑に入組んでいた。老中水野越前守はこれを整理するため、城より十里四方の土地を返上させ、代地を与える政策を打ち出した。上知令である。その書付の大略は以下の通り..
-
天保14(1843)年 大阪町人へ申付けた御用金の大意御勘定吟味役 羽倉外記 当地は天下の中央である上、海運の便もよろしく、数百里の外からも諸品が輻輳(ふくそう)し、其方共は自ら商売の手を広げ、巨万の富を保っている。これまで御用金を勤めたのは、..
-
新吉原江戸町一丁目玉屋弥八抱の遊女白玉の一件天保14年5月19日 北御番所(北町奉行所)で新吉原江戸町一丁目玉屋弥八抱の白玉という遊女に、旧悪のため重追放とする、という判決があった。白玉の旧悪の一件を聞き及んだので、ここに記す。 右女、吉..
-
夫婦にて相対死心中一件音羽町五丁目 良助店 茅屋根屋 重五郎(40余) 同人妻 はん(25) 四月十二日、右の者共、夫婦連にて今宵家を立出、音羽町鉄砲坂上、西丸御広敷御用達貝塚庄三郎拝領屋敷の地守内で、夫婦とも茅刈込..
-
寺社奉行から願人坊主へ渡された書面写高林坊 谷之坊 配下の願人(がんにん)共に教示が行届くよう申渡す。 願人共の作法、近頃猥らになってきて、連立って市中を踊歩き、三衣(さんえ)を着ずに家の門口に立ち、おして施物を貪り、往来を..