記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
天保13年10月 於京都学問処御取建近頃の堂上は風儀宜しくなく、身柄に不相応な遊興をし、卑俗の服を着て遊里へ忍行く人もあると聞く。関白殿も大いに恐入り、深くご心配になっている。昔は大学寮・四姓学校があったが、今は廃絶している。公家は学問..
-
天保13(1842)年4月11日 御触書天保12年から13年にかけて、大量の御触がでる。所謂天保の改革である。「あれはするな、これもするな」と言う内容で読んでいて詰らない。しかし、よくこんな細かい事を、と感心する事もある。その感心した御触書..
-
跡部能登守天保13年に不思議な記述があった。 4月9日 御作事奉行 堀伊賀守 日光へ出立。 4月10日 御勘定奉行 跡部能登守 御普請奉行 池田筑後守 日光へ出立 4月26日 仙台藩主 初め..
-
天保12(1841)年12月18日 芝居取払一件天保12年の後半になると、御触、申渡、御書付なる文書が大量に出てくる。いわゆる天保の改革の指示書である。下は、当時堺町・葺屋町(現在の人形町)・木挽町(現在の銀座)にあった江戸三座が浅草に移転させられ..
-
麹町二丁目伊助店 粂蔵忰金太郎事 盲人 金弥天保12年9月19日 町奉行遠山左衛門尉の御役宅で、以下言い渡された。 其方の父粂蔵は病身で稼ぎもあまりなく、母ゑんも番町辺りの武家方へ僅かの品を商い少々の銭を稼ぐのみだった。そのような中、23..
-
天保12(1841)年2月12日 出羽庄内藩領百姓建候高札之写藤岡屋日記に、前件の酒井左衛門尉の所替に関し、2月に庄内藩領に百姓によって建てられた高札の写しの記載があった。それは、「領民思いの藩主を慕っている」といったレベルではない。その強烈なメッセージの大意は..
-
天保12(1841)年5月 庄内藩主酒井左衛門尉所替一件江戸時代の藩主・領民の関係は年貢の収奪者・被収奪者のイメージがあるが、決してそればかりでは無い様だ。 天保11年11月庄内藩主酒井左衛門尉は突然幕府より長岡藩への所替を命ぜられる。これに一番驚い..
-
宝生流家元服部助五郎一件いつの時代でも、酒の上での失敗は多い。しかしこの人の場合、あまりに代償が大きすぎた。その顛末。 服部助五郎は宝生太夫の弟子にして、宝生流の家元である。先年神田明神の神事能を勤めたのはこの家だ。宝..
-
天保10(1839)年12月2日 義婦烈女之伝信州飯田城主堀大和守親寚(ちかしげ)は江戸城幕閣で若年寄を務めていた。その大和守の老女で豊浦という者があった。美人の上、書、歌道にもすぐれ才気に溢れていた。大和守は殊の外気に入り、妾にしていた。この豊..
-
天保10(1839)年3月26日 尾張大納言斉温逝去、家督の件天保10年3月26日尾張藩主徳川斉温(なりはる)が21歳で、子供無くして亡くなった。幕府からは家督を田安家当主斉荘(なりたか)とするよう要請(命令)があった。これには家中は相当不満があったようだ。尾張..
-
天保6年(1835)7月13日 神田橋門外空地において、敵討ちの一件天保4年12月26日未明、酒井雅楽頭(姫路藩)の江戸上屋敷において、奉行山本三右衛門が当番で泊まり居るところ、松野様から手紙が参りましたという者があった。三右衛門が明かりをつけ手紙を受取ると、その者は..
-
【フェミ】石川優実氏「江戸時代って女性でも将軍になれたんでしたっけ?」