記事「福島」 の 検索結果 7817 件
-
戸ノ口原古戦場慶応4年 (1868年)8月22日、新政府軍は母成峠の藩境を突破しさらに「戸ノ口十六橋」を占拠して、会津城下への侵入の動きを見せました。この地で新政府軍を迎え撃とうとした白虎隊も奮戦しましたが苦戦し、..
-
十六橋日橋川に架かかり旧若松街道が通る橋で、猪苗代町と会津若松市を結ぶ橋。名前の由来は弘法大師が16の塚を作り橋を作ったとのことからだそうです。慶応4年(1868年)に会津戦争「十六橋の戦い」の舞台となった..
-
旧二本松街道並木道楊枝峠経由の若松城下と本宮宿を結ぶ街道の会津領内部分が二本松街道。明治25年(1892年)の新県道の開通により旧街道は衰退の一途をたどりましたが、この付近の松並木は街道跡として良好な状態を残しています..
-
三忠碑天正17年(1589年)に起こった摺上原の戦いで、主君の危急を救うために戦死した蘆名氏の家臣三名(金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄)の忠誠心を後世に伝えるために、古戦場に建てられた石碑です。
-
猪苗代城跡猪苗代城は会津の猪苗代にあった城で、鶴ヶ城に対して亀ヶ城とも呼ばれていた城。江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、藩主の保科正之の死後は正之墓所の守護という重要な役目も担ったとの..
-
母成峠古戦場慶応4年(1868年)8月21日に行われた母成峠の戦いの戦場跡。会津藩境の母成峠を守る旧幕府軍800が新政府軍2,200と戦いましたが、兵力及び兵器の差で勝てず旧幕府軍は敗走しました。
-
内藤四郎兵衛戦死之地碑再建された二本松城箕輪門の手前に建つ内藤四郎兵衛戦死之地の碑。内藤四郎兵衛は戊辰戦争時の二本松城の大城代で、落城の際、城門を開き敵軍に切り込んで獅子奮迅の末、壮絶な最期を遂げたそうです。
-
二本松少年隊像二本松少年隊とは戊辰戦争に出陣した二本松藩の少年兵部隊のこと。本来は13歳以下は出陣不可でしたが、危急の措置として12歳の少年も出陣して戦死し、戊辰戦争における悲劇の一つとして知られています。
-
丹羽和左衛門・安部井又之丞自尽の碑戊辰戦争で、慶応4年(1868年)の7月に二本松城は落城しました。その際、丹羽和左衛門(城代)と安部井又之丞(勘定奉行)は共に自尽。その両人の供養碑が、天守台の近くに建てられています。
-
二本松城二本松城は福島県二本松市にある城で、日本100名城の一つ。戊辰戦争時には二本松藩と明治新政府軍との戦いの舞台ともなり、落城に際し、動員れた少年兵が犠牲となったことで知られています。
-
河井継之助墓(只見)現在の南会津郡只見町で落命した河井継之助は、この地で荼毘に附され、 遺骨は一度は会津に渡り、その後明治になってから長岡に改葬されました。 只見の墓は、荼毘で残った遺灰と遺骨を村人たちが葬ったものだ..
-
河井継之助終焉の地河井継之助は、長岡城下の戦闘で重傷を負い、再起を図るため、八十里峠 を通って会津へと向かいましたが、ついに塩沢村(現・福島県只見町)で落命。 慶応4年8月16日(1868年10月1日)のこと、 享..