記事「長野」 の 検索結果 7848 件
-
青木神社(陣場河原八幡宮)跡永禄4年(1561年)9月の第4次川中島の戦い・八幡原の激戦で、前半不利だった武田軍が後半には攻勢に転じ、上杉軍は劣勢となり犀川を渡って撤退。戦いの終了後、武田軍は、この神社で勝鬨をあげたと伝わってい..
-
茶臼山本陣跡永禄4年(1561年)8月、上杉謙信は1万3千の兵を率いて妻女山に陣をとり、それに対し、武田信玄は甲府から進軍、この茶臼山に本陣を構えたそうです。10日後、信玄は茶臼山を降りて海津城に入り、両軍はにら..
-
松本城永正年間(1504-1520年)に小笠原氏が林城の支城として築城したのが始まりとのこと。天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守12城の一つとして国宝に指定(天守が国宝指定されているの..
-
諏訪御料人供養塔長野県岡谷市の小坂観音院の境内にある諏訪御料人の供養塔。諏訪御料人は諏訪頼重の娘で武田勝頼の母ですが、本名は不明。小説の中では、湖衣姫、由布姫、とも名づけられています。
-
小坂観音院長野県岡谷市にある真言宗智山派のお寺で、かつては諏訪大社の社坊。諏訪氏の祈願所だったところで、井上靖の著書「風林火山」では、諏訪頼重の娘の由布姫が武田信玄の側室となり、この観音院で暮らす設定になってい..
-
武田勝頼母墓長野県伊那市高遠町西高遠の建福寺境内にある武田勝頼母の墓。武田勝頼が藩主の時、武田家菩提所として母諏訪御料人を埋葬したそうです。一番右が武田勝頼母の墓、中央が武田家家臣保科正直、左が高遠藩初代藩主保科..
-
荒砥城跡荒砥城は現在の長野県千曲市にあった山城で、この地域の領有をめぐる上杉氏、武田氏の攻防戦が川中島の戦いへとつながっていきました。現在は城山史跡公園として整備され、大河ドラマのロケにも使用されました。
-
山本勘助墓山本勘助は武田信玄の側近として活躍した軍師で武田24将の一人。第4次川中島の戦いの際、山本勘助の献策した啄木鳥戦法が上杉謙信に見破られて失敗し、山本勘助も合戦の中で討ち取られました。
-
広瀬の渡し永禄4年(1561年)9月10日の早暁、妻女山から下りてくる上杉謙信軍を待ち受けるべく、武田信玄は八幡原に本営を移しました。その時、信玄が8千の兵を率いて渡河したのが、この地点と伝わっています。
-
勘助宮跡武田信玄の軍師であった山本勘助が第4次川中島の戦いで討ち死にしたのがこの辺りと伝わっています。長野オリンピックスタジアムがある南長野運動公園の南西の端に石碑が建てられています。
-
八幡原5度に渡る川中島の合戦で、第4次の合戦時(永禄4年・1561年)に武田軍の本陣となった所。上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの伝説にもなっている所で、現在は、八幡原史跡公園として整備されています。
-
佐久間象山像佐久間象山は江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。当時の日本において、洋学の第一人者だった象山は「西洋かぶれ」と見做され、元治元年(1864年)7月11日、三条木屋町で暗殺されました。