記事「静岡」 の 検索結果 9462 件
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夏目次郎左衛門吉信旌忠碑夏目次郎左衛門吉信は徳川家康の家臣。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、決死の突撃をしようとする家康を思いとどまらせ逃がすべく、家康の兜と馬を以って武田勢に突入し、身代わりとなって討死しました..
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犀が崖元亀3年(1573年)12月22日の三方ヶ原の合戦において徳川勢は惨敗。同夜、一矢報いようと考えた家康は、浜松城の北方約1kmにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍の陣を夜襲させ、武田勢に多数の死傷者が出た..
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三方ヶ原古戦場碑三方ヶ原の戦いは元亀3年(1573年)12月22日に、遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった武田信玄軍と徳川、織田連合軍との間で行われた戦い。信玄の西上作戦の過程で行われ、家康が大敗したことで有名な戦いです..
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高天神城跡高天神城は遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)にあった城で、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城です。また、優美な山の形から鶴舞城とも呼ばれ、国の史跡に指定されていま..
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山木兼隆墓治承4年(1180年)8月、挙兵した源頼朝は山木兼隆の館を急襲。当日は三島大社の祭礼の日で山木館は郎党の多くが留守だったため、兼隆は満足に戦うことができず、加藤景廉によって討ち取られたそうです。香山寺..
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山木館跡平兼隆(山木兼隆)は、元々は伊豆国山木郷に流されていた流人でしたが、平時忠により伊豆国目代に任ぜられ伊豆で勢力を持つようになっていました。源頼朝は挙兵にあたり、先ず伊豆国の目代であった山木兼隆の屋敷を..
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興国寺城跡長享元年(1487年)、今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、今川氏の家督争いでの活躍により、今川氏よりこの城を与えられました。その後、盛時は伊豆に侵入、伊豆国の領主となり韮山城に移ってい..
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対面石治承4年(1180年)10月、黄瀬川近くのこの地に陣を構えまていた源頼朝のもとに、遥々奥州平泉から弟である源義経が駆けつけてきました。その対面時に、二人が腰を掛けたのが、この対面石であると伝わっていま..
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韮山城跡韮山城は15世紀末に北条早雲の関東経略の拠点として整備された城で、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点として維持されました。権現曲輪跡には、早雲が城の守護神として創建した熊野神社が鎮座しています。
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毘沙門堂文覚上人の伊豆の配流地となっていた所。文覚上人は、ここから度々、蛭ヶ小島の源頼朝のもとを訪れ、平家打倒の挙兵を促していたそうです。現在、この毘沙門堂は国清寺の鎮守として管理されているとのことです。
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山中城跡北条氏康により築城された城で、小田原の西の防衛を担う最重要拠点。天正18年(1590年)の小田原征伐では、豊臣秀次率いる7万の軍勢の猛烈な力攻めの結果、200の守兵の山中城はわずか半日で落城しました。..
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平維盛墓静岡県富士宮市上稲子に平維盛の墓とされている石塔があります。平維盛は一ノ谷の戦い前後、陣中から逃亡し、寿永3年3月28日(1184年5月10日)に熊野沖で入水自殺したとされていますが、それ以降の生存説..