記事「館跡」 の 検索結果 186 件
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武市瑞山寓居跡武市瑞山は、土佐藩郷士で尊王攘夷を志す幕末の志士。文久2年(1862年) 山内容堂に従って上洛し、この地に住んで応接役として各藩士と交わったとの こと。武市瑞山は後に投獄され、慶応元年(1865年..
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加賀藩邸跡加賀藩は102万石を誇った最大の外様大名で、前田家が代々藩主でした。 高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代に加賀藩の藩邸があった 処で、留守居役が詰め、各種の連絡事務に当たっていたそうです..
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角倉了以別邸跡角倉了以は、国内諸河川の開発整備に従事し、慶長16年(1611年)には この地二条より鴨川の水を引き、伏見に達する高瀬川を開削しました。 現在の「がんこ高瀬川二条苑」辺り一帯は角倉家の邸地だったそ..
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角倉了以邸跡京都市中京区木屋町にある、高瀬川の開削で知られる角倉了以邸跡。 角倉了以は実家が裕福だったことから、莫大な資金のかかる川の開削に大き く関係し、高瀬川の開通により、京都の物価を安定させたと伝えられ..
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長州藩邸跡中京区河原町通御池西入る付近、現在は京都ホテルになっている一帯。 幕末には長州藩の重要な政治的拠点となり、蛤御門の変で敗れた時には、 この邸内に自ら火を放ち逃れましたが、市中には延焼しなかったそう..
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白川南殿跡平安時代後期(11~12世紀)、白河とよばれたこの地には、上皇の御所が 設けられ、その内の一つである白河南殿は、「白河泉殿」、「南本御所」ともよ ばれ、阿弥陀堂があったことから「白河阿弥陀堂御所」..
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山紫水明処江戸後期の儒学者・頼山陽が晩年に住んだ書斎で、鴨川に面して窓から 東山を望めたことから「山紫水明処」と名付けたそうです。現在も藁葺き 屋根もそのままに保存され、頼山陽の子孫が管理しているとのことで..
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千利休聚楽屋敷跡京都市上京区の晴明神社の鎮座する場所が、千利休の聚楽屋敷跡。 天正19年(1591年)2月28日、千利休は秀吉の命によりこの屋敷で 切腹し、首は近くの一条戻橋の袂に晒されたそうです。
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首途八幡宮京都市上京区にある神社で、かつては金売吉次の屋敷があったと伝わる処。 承安4年(1174年)3月3日、源義経は奥州に赴く際に、吉次の助けを得て、 鞍馬山から当社に赴き、道中の安全を祈願して出発した..
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酒井家上屋敷跡皇居(江戸城)大手濠の近くにある将門塚と同じ敷地に案内板があります。 江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭があった処で、 伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐が殺害されたところだそう..
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滝沢馬琴の硯の井戸跡滝沢馬琴は、「南総里見八犬伝」の作者として知られる、江戸時代の小説家。 寛政5年(1793年)27歳で、当時飯田町中坂と呼ばれたこの地の履物商 伊勢屋に婿入りし、58歳で神田同朋町に移るまでここに..
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大久保長安陣屋跡大久保石見守長安は、江戸幕府勘定奉行、老中となった徳川家の家臣で、 家康から八王子三万石を与えられ、現在の小門町に陣屋を構えました。 八王子では、甲州街道を開いて宿場の建設を進め、千人同心をおきま..