記事「鹿児島」 の 検索結果 7993 件
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御南~島津忠良の娘。大隅の肝付兼続に嫁ぎ、薩隅の安定に貢献した。島津忠良の娘御南は、大隅の有力豪族.肝付兼続に嫁ぎ薩隅の安定に貢献したが、後に島津氏と肝付氏が対立するとその板挟みとなった。 永正8年(1511)、島津忠良の長女に生まれる。後に結婚する兼続とは同..
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亀寿~島津義久の三女で、島津家久(忠恒改め)の妻。「持明彭窗庵主興国寺殿」。亀寿は哀しい女性として知られている。ではどんな生涯だったのか。 亀寿(1571-1630)は宗家16代・島津義久の三女。島津義久は男子に恵まれず、実質的な後継は正室.花舜夫人との間にできた亀寿。島..
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常盤(梅窓婦人)~思わぬ運命の徒で島津中興の要となった常盤は戦国時代、新納是久(?-文明17年(1485))の娘。島津忠良(日新斎:明応元年(1492)-永禄11年(1568))の母。 父・是久は島津一族.新納氏の庶流で、長禄2年(1458)兄・新..
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肝付兼続~戦国時代、島津氏に対抗して勢力拡大した肝付兼続は永正8年(1511)に第15代当主.肝付兼興の長男として生まれる。 天文から永禄年間に肝付氏の勢力が最大となるが、肝付兼続が活躍したのはその時期になる。 天文2年(1533)、父・兼..
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肝付兼重~鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将肝付氏は平安時代、伴兼行(伴善男の玄孫)が薩摩掾に任命され、孫の兼貞は大隅国肝属郡の弁済使となる。その子の兼俊の代に郡名を取って肝付氏初代となる。 その後、南北朝時代には後醍醐の宮方に属し、北朝方..
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牧野伸顕~大久保利通の次男。オールドリベラリスト。牧野伸顕(まきののぶあき)は、文久元年(1861)10月、大久保利通の次男として鹿児島に生まれる。幼名は伸熊。 明治4年(1871)、父利通の希望で上京した伸熊は同年7月遣欧使節一行に同行してアメ..
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堀孝之~「若き薩摩の群像」から除外された2人JR鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」には、17名の留学生像を見ることができるが、留学生15名、付添い4名のうち、堀孝之は高見弥一とともに像から除外されている。 高見は土佐藩脱藩後薩摩藩に採用され..
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高崎正風~後に初代御歌所長を勤めて明治天皇の歌を点した。高崎正風は天保7年(1836)7月、薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男に生まれる。母は登米子(新納常善女)。 嘉永2年(1849)、お由羅騒動によって父五郎右衛門が切腹し、翌嘉永3年、正風も連座して..
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川村純義~いとこの西郷隆盛に実弟のように可愛がられた川村純義は天保7年(1836)薩摩藩士川村与十郎の長男に生まれる。通称は与十郎。妻春子は椎原国幹の娘。国幹の妹・満左子は西郷隆盛の母であり,川村は隆盛に実弟のように可愛がられた。 安政2年(185..
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別府晋介~西南戦争で西郷隆盛自決の介錯をした男別府晋介は弘化4年(1847)別府十郎の次男として生まれる。名は景長、通称を晋介という。長兄は別府九郎。桐野利秋はいとこ。 明治元年(1868)に始まった戊辰戦争では、城下四番小隊(隊長・川村純義)..
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三島通庸~急進的な尊皇攘夷思想を持ち、県令時代は「土木県令」や「鬼県令」と恐れられた三島通庸(みちつね)は、天保6年(1835)薩摩藩士三島通純の子として生まれる。家は代々御能方鼓役を勤め、幕末の石高は50石弱で、通称は弥兵衛。 示現流を学び、伊地知正治に兵学を学んだ。急進的な尊攘..
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高崎五六~いとこ・正風とともに薩藩の公武合体/大政奉還論を推進高崎五六は天保7年(1836) 、薩摩藩士の高崎善兵衛の長男として生まれる。 安政6年(1859)、岩下方平らと井伊幕政の打倒を画策し、江戸,水戸,京を奔走するが挫折して帰藩する。同年11月、精忠組..