記事「保科正之」 の 検索結果 76 件
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歴史小説 鶴ヶ城物語(192)◇賢君の苦渋(20) 正之が、会津へ移ってから8年目の慶安4年(1651)に、将軍家光が死んだ。死に臨んで家光は、当時11歳の幼児に過ぎなかった(というが、少年だろう)4代将軍家綱の将..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(191)◇賢君の苦渋(19) この時も加増されて、計23万石となっている。会津藩主となってからの正之の治世については、くだくだしく述べるまでもあるまい。戦火絶えてより約30年、まだまだ諸大名の..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(190)◇賢君の苦渋(18) 正之は、これを聞いて、 「奇特なことではないか。兄弟、死を決して親の命を救い、わが家を守るというは、命をかけて国事に働くも同様のことである。なんとなれば、世に..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(188)◇賢君の苦渋(16) しかし、正之は、 「西国に事ある時は、東国・奥州を事なからしめねばならぬ。余を最上へ移さしむるも、奥州筋押さえのためとの思し召しであるから、誠に名誉なことだ」..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(187)◇賢君の苦渋(15) 間もなく、3代将軍家光から、 「幕府政治に参加して、躬(み)を補けるように・・・」 と、正式に命が下った。 初代将軍家康の孫にあたる保科正之であり、現将..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(186)◇賢君の苦渋(14) さらに・・・。 この翌年寛永14年(1637)になると、正之は養父・保科正光の実弟正貞へ、保科家累代の宝物(徳川家康からの太刀、感状)その他を譲り渡し、信州の..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(185)◇賢君の苦渋(13) 大名の国替えというものは大変な苦労を伴うもので、正之は、自分が新しく計画した検地に反対する白岩郡の農民一揆を弾圧し、30余人を磔にするという、断固とした処置も行っ..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(184)◇賢君の苦渋(12) 高遠藩主となって5年目に、保科正之は最上(山形)へ国替えを命ぜられたが、この時、17万石の加増を受け、計20万石の大守となった。 幕府が正之をして東北地方(で..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(183)◇賢君の苦渋(11) 時に、元和3年(1617)で、正之は7歳になったばかりだが、これまで見性院の熱心な扶育によって受けた影響は大きかった。 後年、正之は、 「見性院様なくして..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(182)◇賢君の苦渋(10) もしも、家康の子であったとしたら、利勝もまたいうにいわれぬ「暗黒」を切り抜けて世に生まれ出たに違いない。それでなくては出生を秘密にしておくわけがない。 もしも..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(181)◇賢君の苦渋(9) これで将軍自身が「わが子である」との認知をしたわけであるから、さすがの於江夫人もこれを認めないわけにはゆかなかったが、後で夫秀忠を随分虐めたことであろう。 正之..
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歴史小説 鶴ヶ城物語(180)◇賢君の苦渋(8) 神尾才兵衛と竹村次俊の発言がなかったら、保科正之の生命は闇から闇へ葬られ去ったであろう。 ここへ、さらに強力な味方が現れた。老中として将軍を補佐し、幕閣における..