記事「石橋湛山」 の 検索結果 160 件
-
猪間驥一評伝抄・第3章第3章「石橋湛山に統計学を講義する」 1.石橋湛山(1884‐1973)との出会い ●「石橋さんが主筆だった東洋経済新報で、統計図表の正しい描き方がよくわからぬ、社員に一つ講話をして欲しい、という..
-
猪間驥一評伝抄・はじめに「はじめに」 ●3つの驚きとともに始まった猪間驥一の研究… ●1つ目の驚きは、1920年代、神戸市で始められた、「巡回産婆」という活動の存在。 ●2つ目の驚きは、そうした社会事業を補完する、「東..
-
鈴木武雄、謎の氷解6他方、鈴木武雄の石橋湛山との関係は、高橋亀吉とのそれに較べると、さほど親密ではなかったように思われます(ちなみに、『石橋湛山日記』に鈴木の名前は出てこない)。 1946年5月、湛山が第1次吉田内閣の..
-
鈴木武雄、謎の氷解5終戦直後の鈴木武雄の足取りを追います。 1945年11月、引揚げ。高橋亀吉が住まいの提供を申し出る。日本経済研究所にも誘う。 1946年5月、岩波書店の『世界』に「朝鮮統治への反省」を発表する。石..
-
自由通商協会と石橋湛山3『東洋経済新報』1929年10月19日: 時評 【関税引上の審議会】先日ある会合で現内閣の関税改正は、綿糸、砂糖其他の引下もしくは軽減を主とするのか、鉄鋼、硫安その他の引上を主とするのか、一体どち..
-
自由通商協会と石橋湛山2『東洋経済新報』1928年1月28日(つづき): 以下、湛山は、1838年、コブデン、ブライト両闘士を首領としてマンチェスターに繰り広げられた穀物条例反対同盟の運動を紹介します。 この運動が成功し..
-
自由通商協会と石橋湛山1私が気づいた限りですが、石橋湛山は、この自由通商協会の立ち上げについて、『東洋経済新報』の2つの記事で言及しています。 『東洋経済新報』1928年1月28日: いかにして自主独立の精神を作興するか..
-
石橋湛山の卓見終戦記念日に寄せて、大正四年(1915年)『東洋経済』に寄稿された、石橋湛山の社説「第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について」 を紹介します。 吾輩は我が政府当局ならびに国民..
-
猪間の終の棲家、再訪一昨日、編集者の方とご一緒に、猪間驥一のご家族を再訪しました。目的は、評伝に使う写真等をお借りするためです。 1961年、5ヵ月に渡ってヨーロッパ諸国を旅したときの感想をつづった、私家版の『折り鶴の..
-
猪間驥一の植民地問題認識ある忘れられた自由主義経済学者、猪間驥一 ――その人口問題・植民地問題認識を中心に―― 1919年、猪間驥一は東京帝国大学に新設された経済学部の第一期生として入学する。ここで彼は、新進気鋭の糸..
-
『歴史的調査』追加情報猪間が1954年5月、中央大学の『経商論纂』に書いた、「日本領有時代の植民地の衛生・教育統計に現われた社会的厚生の増進」という論文があります。これについては、改めて書くことになると思いますが、今回は、..
-
猪間驥一研究のこれから出版社の社長と編集者の方、大学院の指導教授、それぞれと話し合って、猪間驥一の評伝について今後の方針が決まりました。 1. 猪間の評伝については、植民地統治の問題には踏み込まないでまとめる。つまり、『..