記事「石橋湛山」 の 検索結果 159 件
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猪間驥一家、3度目の訪問ついに、猪間家を訪問して、写真と著書をお返しすることができました。 2年半借りっぱなしで、ご連絡もできないままで、お怒りになっても当然であるのに、この非礼を許してくださり、私の猪間驥一研究の話を熱心..
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猪間驥一研究計画・追記1大学の自習室で一人になって、涙が止まらなくなりました。 先ほど、ある方に、この3年間、とくに最後の1年間に起ったことをお話していました。これまで、ごく身近な人たち以外、誰にも明かせなかったことがらで..
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猪間驥一研究計画書5終章 石橋湛山の小日本主義と高橋財政下の三つの構想 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』編纂の過程には、もう一つ隠されたエピソードがあった。それは、京城大学にいた鈴木武雄と、かつて『東洋経済新報..
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猪間驥一研究計画書4第二部(終戦直後編) 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』成立の過程 第二部では、『日本人の海外活動に関する歴史的調査』が議論される。 第2次世界大戦開始後の1942年、猪間は満州商工会議所..
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猪間驥一研究計画書3第一部(戦前編) 猪間驥一の1920-30年代の人口問題・失業問題研究 第一部では、戦前の人口問題研究における猪間驥一の業績をたどる。 1919年、東京帝国大学に新設された経済学部の第一期生と..
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猪間驥一研究計画書2序章 日本近代史における高橋財政の再評価をめぐって 今日、昭和恐慌期前後における金解禁論争、あるいは1930年代の高橋財政をめぐる議論が再燃している。この章では、金解禁論争における石橋湛山・高橋亀..
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猪間驥一研究計画書1私が、猪間驥一の評伝をまとめた上ですすめようとしているのが、猪間の人口問題・植民地問題認識(日本近代史認識といったほうがよいかもしれません)に関する研究です。この内容は、とりあえず博論計画書として提出..
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京城で起こっていたこと以前に、鈴木武雄と高橋亀吉、小倉政太郎との関わりについてはまとめていますが、今回はそれに石橋湛山の動きをプラスして並べてみました。 内容からすると、「鈴木武雄と石橋湛山2」としてもよかったのですが、..
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猪間驥一の亡くなった日に本日は、猪間驥一が亡くなって、44年目の日に当たります。 昨年度に起こったことを説明するのは非常にむずかしいですが、けっきょく私は、まる一年、猪間驥一に関する研究をまったくやらなかったという扱いにな..
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鈴木武雄と石橋湛山1昨年の終わり頃から、とくに今年になって、気落ちさせられることがいろいろあって、しかもそれを誰かに話すこともできなくて、悶々とした日々を送っていました。 ブログではまとまったことは何も書くことができな..
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人口の都市移住と農村工業昨日の石橋湛山の小論「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張」(1954年)は、猪間の「人口の都市移住計画」(仮称)と湛山が推奨する「農村工業計画」とが矛盾するものではないことを示すため..
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リフレ政策が可能にしたものたまたま読んでいたものに、石橋湛山の「私の見た大河内博士の功績 いわゆる科学主義工業の主張」(1954年)があったのですが、その出だしのところにこう書かれています。 昭和六年十二月..